技術と人を軸に、“知りたい”を深掘りするメディア スゴ本と読書猿が映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を語り尽くす

書評ブログ「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」(スゴ本)管理人。「その本が面白いかどうか、読んでみないと分かりません。しかし、気になる本をぜんぶ読んでいる時間もありません。だから、(私は)私が惹きつけられる人がすすめる本を読みます」

読書猿

「読書猿 Classic: between / beyond readers」管理人。正体不明。博覧強記の読書家。メルマガやブログなどで、ギリシャ哲学から集合論、現代文学からアマチュア科学者教則本、陽の当たらない古典から目も当てられない新刊までを紹介している。人を喰ったようなペンネームだが、「読書家、読書人を名乗る方々に遠く及ばない浅学の身」ゆえのネーミングとのこと。知性と謙虚さを兼ね備えた在野の賢人。著書に『アイデア大全』『問題解決大全』(共にフォレスト出版)。

谷古宇浩司

株式会社はてな 統括編集長/サービス・システム開発本部 開発第5グループ プロデューサー。本対談のオーガナイザー。

Dainさん(スゴ本)と読書猿さんの対談記事バックナンバー:

谷古宇 前回、前々回の対談が終わった後くらいでしょうか、フレデリック・ワイズマン監督の新作『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』が日本で公開されることを知ったわたしたちは、じゃあ、その作品をテーマに改めて図書館を巡るお話をしようよ、ということで、新たな対談の実施を決めたのでした。

実際、映画を見ると、ニューヨーク公共図書館(以下、NYPL)というのは、わたしたちが日頃利用している日本の図書館とはだいぶ異なる印象を残します。ニューヨークの文化醸成を担うための機関というか……、NYPLが提供するサービスのスケールは日本の図書館が担う役割と比較して、桁違いに大きいと感じました。読書猿さんは昨日映画を観られたんですね。

読書猿 昨日観ました。もう、見ると聞くとじゃ、全然違う映画ですね。図書館の映画ではないですよ、これ。

Dain そこから。

谷古宇 では、そこからお話を始めましょうか。

読書猿 今日の対談のためにこの本を持ってきました。『すべての人に無料の図書館—カーネギー図書館とアメリカ文化1890-1920年』(アビゲイル・A・ヴァンスリック、翻訳=川崎良孝他、京都大学図書館情報学研究会、2005)。発行元は京都図書館情報学研究会(2010年3月までは京都大学図書館情報学研究会)という、すぐ絶版になる素晴らしい本をたくさん出しておられるところで。

すべての人に無料の図書館―カーネギー図書館とアメリカ文化1890-1920年

Dain (笑)

読書猿 ほんとに、この版元は図書館学系の文献をたくさん出しているんですが、どんどん品切れ、絶版になっているんですよね。ホントはこの対談を読んでる人はみんな、読んだ方がいい本ばっかりなんですよ。たとえば、読書研究の本*1とかもここだったんじゃないのかな。どんな人がどんな風に本を読んでいるかに関する沢山の研究を扱った本です。そして、新しい世代の図書館学や図書館史の本をたくさん翻訳しておられる。

読書と読者―読書、図書館、コミュニティについての研究成果

いままでの図書館史はどんなのだったかというと、一番古い形は、ある1つの図書館について、いつ設立されて、こんな偉い人がいましたという記念史的なもので、図書館自身が何周年で出すみたいなのが「図書館史」だった。その次が、制度の話。どんな図書館の制度があって、それが変化して、現在に至る、みたいな。さすがに図書館史も、いつまでもそんな水準ではないんだけど、一方で歴史学をやっている人から見れば「ナニ、子供みたいなことしているんだ」と思われたんじゃないのかな。僕は歴史学のことはあまりよく分かっていないんですけど、歴史を研究しているプロパーの人からはどう見えていたのか。で、歴史学研究からの批判だとかインパクトを受け止めたら、どんな新しい図書館史ができるのか。この『すべての人に無料の図書館』という本は、そういうことに取り組んできた新しい世代の図書館史の1つなんですよ。

で、その訳者解説のところで、今までの図書館史の流れを手短にまとめてあるんですけど、その中で「図書館善玉説」というか、もっとはっきりいうと「図書館は民主主義の味方です」みたいなこというけど、それほんとなの、という話が出てくる。

Dain はい! それは。

読書猿 具体的に人の名前を挙げていく方がいいと思うんですが、まずジェシー・H・シェラという人がいます。『パブリック・ライブラリーの成立』(ジャシー・H・シェラ、翻訳=川崎良孝、日本図書館協会、1988)という本がありまして*2。この人は図書館史で絶対に出てくるような超有名人です。この人がいっているのが「民主主義のための図書館」。いわゆる民主的解釈といわれているものです。要するに公共図書館が成立する過程というのは民主主義と手を繋いでいて、図書館が進むごとに民主主義も進むし、民主主義が進むことで図書館もよくなってきたんだよ、というような、まあ美しいお話があったということです。

パブリック・ライブラリーの成立

Dain 「いいお話」ですね。

読書猿 はい。ただ、時代がね、そういう主張を出していかないといけない時代ではあったんです。シェラの本の原著は1949年刊行です。それ以前に出版されていたような、図書館単体を扱った歴史じゃなくて、パブリック・ライブラリーを社会の中に位置づけた本だった。そこに意義があったんです。マッカーシズム*3旋風がアメリカ中に吹き荒れたのは1950年からですけど、1947年には非米活動委員会がチャールズ・チャップリンや映画監督のジョン・ヒューストンを業界から追放してる。そういう時代ですから、そこを批判するわけではないです。しかし、「ずっとそのままでいいの?」という話は当然出てくる。たとえば、社会教育史で「アメリカの教育史はどうなっていたのか」というテーマから見た時、いまの話を学校に置き換えると「学校というのは民主主義を育てていったんだ」という話になりますよね。民主主義にすごく役立っていったんだと。移民がたくさん来て、その人たちがアメリカの市民になっていくのを手助けした。それがアメリカの統合に役に立ったんだ、というのが、民主的な学校史みたいなことになります。

Dain まあ、そうですね。

読書猿 ただ、当然、「そうじゃないでしょ」という話もその後、出てきた。アメリカ史の中ではリヴィジョニスト*4とかいわれるんですけど。要するに見直しをしようということですね。民主的解釈に対して、彼らリヴィジョニストは反対に、学校というのは中産階級の価値観で作られていて、むしろ労働者階級とか移民とかはその価値観に合っていなかったと主張します。中産階級の価値観を持っている人は学校にうまく適応できて、労働者階級や他の国から来たような人々は落ちこぼれる仕組みになっている。「むしろ差別と選別の再生産をするためにできているのが学校制度なんだ!」という主張で、こういうのが1960年代に出ています。

Dain なるほど。

読書猿 じゃあ、図書館史の方は、美しいお話のまま、ハッピーなままでいいのか、ということになりますよね。学校史の側はこうした反対意見を受けて、さらにその次を考えるところまで議論が進んでいるのに、図書館史はどうなっているのか。いや、当然進んでいるんですよね。アメリカの図書館史の第2世代にあたるシェラたちの民主的解釈に対して「違うだろ」とリヴィジョニスト的な解釈をつきつけたマイケル・ハリスみたいな人が出てきて、これがアメリカの図書館史の第3世代です。さらに1980年代以降、両方を見たバランスのいい見方はなくていいのかという、第4世代みたいな流れも出てきた。その中の一冊がこの本『すべての人に無料の図書館』なんです。

もう1つは、いま1960年代っていいましたけど、それまではなんだかんだいって白人の歴史じゃないですか。白人男性の歴史でしょ。いわゆる公民権運動の中で、そうじゃない人々が社会運動を通じて出てきた時に、歴史学の中でも、女性やマイノリティの人たちがいままでどういう役割を担っていたのかという話を掘り下げていく必要が出てきた。政治を握っていたのは白人男性なので、政治史をやると、どうしても白人男性にしか光があたらなくなるんですね。じゃあ、そうじゃない人たちに注目しようと思うと、社会史のアプローチが必要になる。それで、社会史の方からすごくたくさんの成果が上がってきたという流れがある。じゃあ、そういう社会史的なアプローチで声なき人たちをすくい上げることを図書館史に活かせないのかという話がここで出てくる。図書館史の中でいうとまずは女性です。だって、図書館員の圧倒的多数は女性ですから。ただ、館長とかの幹部スタッフには男性が多くてですね、館長史とかやっちゃうと……。

Dain 男性ばかり。

読書猿 そうです。今日持ってきた本に『図書館を育てた人々(外国編1)アメリカ』(編纂=藤野幸雄、日本図書館協会、1984)というのがある。これはまだバランスがいい方なんですけど。

図書館を育てた人々 (外国編 1)

Dain 女性、出てきますよね。

読書猿 出てきます。ただ、人数的にはやっぱりどうしても少ないです。ちなみにこれ(『図書館を育てた人々』)、日本編もあるんですけど、日本編は男性ばかりです。

Dain あ、そう、そう。日本編、全部は読んでないけどパラパラ見ました。確かに男性ばかり。

例外がアメリカ編のアン・キャロル・ムーアでした。彼女は児童閲覧室の必要性を主張し、NYPLで初となる児童閲覧室を導入します。それがNYPLから全米に広がっていった。また「ヘラルド・トリビューン」紙で児童書を担当したとも紹介されてますね。これは本当に例外で、アメリカ編も男性がほとんどでした。

アン・キャロル・ムーア、By Source (WP:NFCC#4), Fair use, Link

読書猿 で、そうじゃないんじゃないの、という話が出てくる。「図書館史の中の女性」みたいな本があります。ディー・ギャリソンという人が『文化の使徒 公共図書館・女性・アメリカ社会、1876-1920年』(ディー・ギャリソン、翻訳=田口瑛子、日本図書館研究会、1996)という本を出している。この本でギャリソンは――いままであまり取り上げられていなかったけれど――図書館員の圧倒的多数が女性なんだということを書いた。図書館を理解するには女性の視点が欠かせないということを打ち出したわけです。ただ、これはあとでたくさん叩かれる話になったんですけど、要は「女性が多いことが、図書館員の司書職が専門職になり損なった原因なんだ」といういい方(そう読まれても仕方ないような書き方)をしているんですね。

文化の使徒―公共図書館・女性・アメリカ社会,1876-1920年

Dain うーん、それは……。

読書猿 でしょ。それでかなり叩かれるんですけど。ただ、女性の図書館員が多いというのは事実としてあるんですよね。また、アメリカですら図書館員の専門職化を確立し切れてないという反省もあった。それでその原因の1つが、女性が多かったからではないか、とギャリソンは考えた。これはただ、ギャリソン1人が“悪人”というよりも、実際にそういう風な目で世間から見られていたという話でもある。たとえば、アメリカでは、鋼鉄王アンドリュー・カーネギーの寄付金で全米に図書館がたくさんできますが、実はカーネギー財団というのはなかなか縛り屋さんであって、設立にはお金を出すけど、運営費は出さない、という。で、運営側は一定の人件費という枠の中で図書館員を揃えようとして、女性をたくさん雇うことになる、とかね。

Dain あ〜。

読書猿 要するに当時は、というか、いまもそうですけど、女性の人件費って安かったんですよ。十進分類法を作ったメルヴィル・デューイ*5という人がいて、彼は「女性というのはおれたちの味方なんだ」ということをいっているんだけど、一方で、司書職としてのライブラリアンシップというのを打ち出して、「図書館というのは大人しい本好きが勤めているところじゃないんだぜ、もっとすごい文化的な、『前に行く人々』がいるところなんだ」とやった。積極的な司書像を出すために、要するに、男性もやれるような仕事だという打ち出し方をしたわけです。

メルヴィル・デューイ、By Library Journal - ALA Presidents 1876-1903. Library Journal, Aug. 1921, パブリック・ドメイン, Link

そうするとですね、女性はあまり入ってきてほしくないというようなことにもなるわけ。でも、実際、運用しようと思うと、つまり、ある一定のリソースとお金で、たくさんのスタッフを揃えようと思うと、人件費の低い女性に頼らざるを得ないという現実もあった。かっこいいこと(「司書職の確立が必要なんだ」)をいうのはいいんですが、それが女性の(遠回しの)排除につながることに無頓着だった。でも、現場では結局、女性を雇わざるをえず、安い賃金で働かせることになってしまう。平たくいうと搾取ですよね。そこを受けてギャリソンは本を書いたわけです。マイナスな意味で女性はそういう扱いをされていた、と。ギャリソンにはギャリソンなりの考えがあった。

でも、なんか反論したいですよね。

ギャリソンの仕事(『文化の使徒 公共図書館・女性・アメリカ社会、1876-1920年』の原著刊行)は1979年です。いまでは彼女の主張を批判した次の研究が出てきています。『アメリカ図書館史に女性を書きこむ』(編著=スザンヌ・ヒルデンブランド、翻訳=田口瑛子、京都大学図書館情報学研究会、2002)。この本はヒルデンブランドが編集した論文集です。図書館の女性化は、つまり、多くの図書館員が女性になったことは、司書職の発展を妨げてはいないんだ、という論点で編集されている。むしろ図書館の黄金時代を作り出したのは女性ではないか、と。その証拠はなんだというと、今日のテーマである映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』にも出てきた話だったんです。

アメリカ図書館史に女性を書きこむ

当時の社会活動、たとえば禁酒運動とかもそうですし、売春の問題に対してもですが、それらは女性団体が主導していた。そこからソーシャル・ワーカーなどの専門家がどんどん出てきた。これらの新しい専門職は女性が開拓した。だから女性が多いという状況がある。司書になる女性たちもそういった人たちと当然ネットワークがあり、社会のことに関わっているんだという共通認識もあった。

それまで図書館は、いってしまえばただの本のストレージ(保管庫)で、図書館が社会に出ていくなんていうことはしていなかった。誰がそれをやったかといったら、女性たちなんですよ。いままで図書館の仕事じゃなかったことをどんどん開拓していったのは女性です、と。もともとの図書館の仕事は男性が全部のポジション押さえているわけですよね。で、彼女たちは、それ以外の仕事は何かないのか、と考える。

たとえば、ソーシャル・ワークをやっている人たちから「子供たちに問題があるんだよ」という話を聞く。それで、図書館で何かできることないのかと考え、児童書コーナーといったものを作って子供たちを呼ぶ。そして、もっとたくさん呼ぶにはどうするべきかという話になって、それまではなかった子供に対するサービスが始まる。

あるいは、労働者向けのサービスなんかもそういう風に始まっていく。

この映画で出てくるような、僕たち日本人がびっくりするような(図書館の)サービスを誰が開拓したかというと、女性たちだったんです。本当は驚くような話ではないんですけどね。だって、ずっと前からやっているんだから。

もともと書斎であったり、書物の宝物庫だったあの図書館(ライブラリー)が、いま僕らが知っているようなパブリック・ライブラリーになっていったのは、そこで働いていた多くの女性が独自に新しい仕事を見つけて、図書館を外へ開くようにしていったからだ、ということが『すべての人に無料の図書館』にも書かれています。

この本(『すべての人に無料の図書館』)の著者は建築の関係の人で、だから本には平面図がたくさん出てきます。この建物になったのはなぜか、どういう人がどう動いていたかという話が出てくる。さっきの女性たちが新しく始めた仕事には、こういう建物が必要だ、とか。写真とか図面で証拠を出せるというのが面白い。活動って見えないし、残らないじゃないですか。証言とかはあるにせよ。そういう「図書館は誰がどんなことをやっていて」「それがどう変わっていったのか」を建築史の方から追いかける実証的なアプローチを採用しています。誰かの証言だけでなく、実資料を出せるわけですよ。「これはすごいな」と思います。社会史や女性史といった、歴史学の新しい成果も取り入れながら、建築史としてモノも押さえる。この映画のサブテキストとしてぜひ、おすすめしたいです。

谷古宇 ニューヨーク公共図書館を語る時に頻出するキーワード「民主主義」――。わたしたちがこの言葉を使う時に思い浮かべるその具体的な姿とは? 古代ギリシャ、ローマの民主政を起点とした民主主義の歴史を振り返りながら、現代アメリカの政治イデオロギーを考えます。

Dain 僕、さっきの話で引っかかっていたことがあって。図書館と民主主義という言葉が出てきたじゃん。『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』でも、「ニューヨーク公共図書館は民主主義の柱だ」というようなキーワードがどこかに散りばめられている。だけど、すごいモニョモニョするんですよ。間違っているという意味じゃないんだけど、まあ、そうかもね、と思えるところはあるけど、すごく前面に出されると「まじか」と。だったら中国には図書館ないんだっけとなるし、北朝鮮には? キューバには? という風になる。そういう側面もあるかもしれないし、あるのは否定しない。でも、だからといって、「図書館=民主主義」とイコールにしてしまうと、なんか違うのでは、と思います。

ただ、「民主主義」という、いわゆる地雷ワードを入れると、「じゃあ、あなたがいっている民主主義って?」という意見が出てくるはず。誰もが百歩譲って「うん、うん」と納得してくれそうなのは、民主主義というのは「システム」だということ。「仕掛け」だ、と。

多数決の原理でもいいし、選挙でも投票でもいい、議会の進め方、代表者の選び方でもいいんだけど、民主主義のやり方というのは、いま僕らが民主主義だと信じている「システムの仕掛け」だと考えられます。これを映画の方に当てはめてみると、ちょっと違うと思うポイントが……。

『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』では幹部会議のシーンが何回も流れるじゃないですか。そこでは館長がバーっと話しているんだけど、あの人ってじゃあ、選挙で選ばれたのか? と。裏は取っていないけど、たぶん違うと思う。幹部会の中でいろんな人がいて、お財布握っている人、本を選んでいる人、そして、組織のトップにいる人たちがいるんだけど、その人たちがどんな風にそのポジションに至ったかというと、選挙で選ばれたとかではなくて、何らかの役目をやりなさいと誰かにいわれたのでそこにいると僕は思う。じゃあ、そういう人たちが本を選ぶ時に、何かの法則があるか? と。ニューヨーク在住でNYPLの図書カード持っている人にどんな本が欲しいんですかと聞いたら、「わたしは●●という本が欲しい」というリクエストが出てくると思う。じゃあ、そのリクエストの多い順に本が買われているかというと、これも裏は取っていないんですけど、違うと思う。

読書猿 「人気のある本を買うのがよいのか」みたいな議論は映画の中でもされていましたよね。確か、電子書籍についての幹部会議のところで。

Dain そう。NYPLの書架に並ぶ本は、そのすべてが民主的手続きを経て選ばれているわけではないと思う。これをそのまま文字に書いちゃうと語弊が生じて、岩波新書(『未来をつくる図書館―ニューヨークからの報告』)を書いた方とかその読者の皆さんにすごく怒られそうな気がするんだけど、でも、僕はそう思う。選別があると思うんですよ、図書館には。それは民主的なものじゃなくて、誰かが恣意的に選んでいる。パターナリスティックというんでしたっけ、父性主義というか、「おれさまの方がよく分かっているんだから、きみたちはこれを読んでいればいい」という。図書館がそうであるという意味ではなくて、そういう背景なり何なりが、図書館の歴史を紐解くとあるはず。『公共図書館の冒険』(柳与志夫・田村俊作編、みすず書房、2018)だったっけ、読書猿さんのいう2018年のスゴ本、そこにもその匂いがぷんぷんしている。今日僕が持ってきた『現代思想2018年12月号 特集=図書館の未来』(青土社、2018)にもその匂いがすごくする。図書館が民主主義を育んできたことは否定しない。だけど、それとはちょっと違うものがあると思う。本の選び方は、その時、その時での「一番いいな」「こうあるべきだ」という何かの決定によって選ばれているのだと思う。

未来をつくる図書館―ニューヨークからの報告― (岩波新書)

公共図書館の冒険

現代思想 2018年12月号 特集=図書館の未来

幹部会議の後半で出てきた、電子書籍にまつわる議論を紹介しましょう。パンフレットを引用すると、『電子本か紙の本か。ベストセラーか推薦図書か。一般図書か研究図書か。予算は限られている。図書館の永遠のジレンマ。蔵書収集規定も見直されるべき時期だ』。あ、でも確かこの映画で、2008年の規定といっていたから、やっぱ10年くらいで変えるのかな。けっこう頻繁に変えているなと僕は思いました。

だから、このパンフレット自体でも謳っているし、「図書館は民主主義の柱だ!」と映画の中でもいわれているけれど、僕は違和感を覚えました。それは、あとで出てくるだろう「公共図書館」と「公立図書館」の違いにもつながっていくと思います。

読書猿 たぶんね、民主主義がどんなものかっていうのが、なかなか理解されていないと思うんですよ。ふわっとした理解だと「みんなが参加して、みんなで決めたら民主主義」みたいなことになる。仕組みなんかいらないんだと。あるいは仕組みも含めて、みんなで決めればいいんだという。でもね、そんなレベルの民主主義をやっている国なんてないんです。そんなの成り立っていないというか、すごい不安定です。最後は内ゲバに終わってしまうというかね。

民主主義というのはデモクラシー、つまりデモス(民衆)の権力、民衆の政治です。で、本当に“何様”だといういい方をするんですけど、民衆というのは近視眼的で、私利私欲にも走る。カリスマ的な人がいたら「わーっ」と一方向に流れて、結局、独裁になってしまいました、というようなすごく不安定な存在。みんなが参加して、みんなで決めるというのは美しい話だし、必要だし、かつ、そういう話し合いの仕組みがないと、人というのは暴走しちゃうんですけど、話し合いの仕組みだけである程度以上の大きな社会システムを回していけるかというと、まず無理。話し合いだけではうまくやっていけないということが、これまでの人類が歴史の中で培ってきた知恵であり、知識なのかなと僕は思う。

ただ、じゃあ純粋な民主主義は成り立たないものだからいらないのか、排除していいのかというと、それもそうではない。実際の、機能してる民主主義って「鉄筋コンクリート」だという話をしようかと思っていたんです。みんなが参加してみんなで決めるという仕組みを成り立たせるために、それとは異質なものを入れる。コンクリートに対して鉄筋という異質なものを入れるみたいに。僕らのいる日本もそうですし、アメリカもそうですけど、そうやって国の制度や社会の仕組みを決めている。その異質なものの1つが共和制というか、リパブリックという原理なのかなというのがあって、今日この重い本を持ってきたんです。『マキァヴェリアン・モーメントーフィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統』(ジョン・G・A・ポーコック、翻訳=田中秀夫他、名古屋大学出版会、2008)*6。

マキァヴェリアン・モーメント―フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統

原著はけっこう古いんですよ。この翻訳自体は2000年代に入ってからなんですけど、名古屋大学出版会が翻訳して出してくれているものです。『マキァヴェリアン・モーメント』は確か、原著が出たのは1975年くらいだったと思います*7。

この本が出た後、政治思想界や政治史界で大論争が巻き起こった。それまで共和主義ってオワコンというかですね、「いまさらそんなもの」みたいな、そんな風に捉えられていた。つまり、王政に対してまだ共和制はいい、王さまがいない分、進んでるから。ただ、ちょっと貴族政治やエリート政治のようじゃないかと。我々はすでに民主主義まで行っているんだから、共和主義はちょっと古いんじゃないのというか、昔のものという扱いをされていた。しかし、この本が出て「アメリカは自由主義、リベラルだといっているけど、そのコアは共和制だよね」と。それでアメリカの思想界の皆さんは傷ついたんですよね。「おれたちはリベラルだ! ニュージランド人のくせに」(笑)ってのは冗談ですけど。著者はニュージランド出身なんです。

この本は以前紹介した『ヨーロッパ文学とラテン中世』(E・R・クルツィウス、翻訳=南大路振一他、みすず書房、1971)と同じくらい分厚い。(この本でメインに据えられている)マキァヴェッリという人は、共和制をとことん考えた人です。というのも、彼が行政官をやっていたフィレンツェはもともと共和制だったけど、長くメディチ家が支配してたわけで。アリストテレスとか古代ローマの歴史から汲み上げて考え抜いた、マキァヴェッリの共和制の可能性と持続不可能性についての考察が、清教徒革命などのイギリスの内乱に対するハリントン(イギリスの政治哲学者ジェームズ・ハリントン*8)の思索に引き継がれ、これがさらにアメリカ合衆国の制度デザインをやるマディソン(ジェームズ・マディソン*9)らに受け継がれる。それぞれ時代状況も政治的文脈も異なる人たちを渡っていくマキァヴェッリ的な契機の、長い歴史を扱った書物なんです。文献学的に資料もボンボンぶち込んで書かれている。だから、文句があるならやってみろ、と。物量で闘うなら受けて立つぜ、という。

ヨーロッパ文学とラテン中世

Dain これと同じくらいの分厚さの本で殴ってみろ、と。

読書猿 そう。だから大論争になるのも分かるし、それまでは共和主義って忘れられかけていた思想だったのに、実はアクチュアルなもので、いまに生きている共和的な原理はたくさんあるんじゃないか、と見直される起点にもなった。これ以前にも実は、アメリカでは共和制が大きく働いているという話をする人は何人か出ていたんですけど*10、論争も含めて、ここまで大きな流れにはならなかった。

ただ、やっぱり、民主主義もよく分からないんですけど、共和主義もよく分からないですよね。1つのモデルは帝政になる前の、古代の共和制ローマです。あれは元老院みたいなところがあって、いわゆる政治エリートである――キケロほどではないにせよ、弁論ができて、演説ができるような少数の言論のプロたちが――お互いに牽制し合いながら政治を行うというもの。その原理は、「自分を律することができるものは、他人を律することもできる」ということです。逆にその社会に参加する者たちは、他人に律せられること、他人からの拘束を受け合うことに同意して参加する。複数の、しかし、能力を持った人々が相互に拘束し合いながら行う政治。これが実はけっこういいんじゃないのという考え方がある。

何に対していいかというと、1つは王政って王さまがよければいいんだけど、だめな王さまだとそこで一気に国がまずい方向にいっちゃうわけですよね。それに、いい王さまでも、自分のダメな子供に王位を継がせたくなったりとかして、ずっといい王さまとは限らない。そういう意味では王政が破綻する要素については、僕らでもすぐに想像がつく。

で、民主制はさっきの話ですよね。「民の声は神の声(Vox populi vox dei.)」というラテン語の成句があるけど、みんながお互いバラバラに好きなことをいい合っても、極端な考えは相殺しあって、ちょうどいい感じの意見にまとまるみたいな考え方もある*11。しかし、民衆はだいたい私利私欲に走るし、視野も狭いから、一方に傾くと一気にわーっと流れてしまって*12、そこから衆愚政治、独裁になりやすいということも経験的に分かっている。だから、じゃあその間を取ったくらいの、寡頭政治っぽい共和制はどうだろうか。寡頭政治っていってしまうとイメージよくないんですけど、その原理というか発想は、さっきの「自分を律することができるものは、他人を律することもできる」という、まともなちゃんとした能力のある人たちが相互に牽制し合う、拘束し合うという方が、まだ安定するんじゃないか、と。

Dain まさにNYPLの幹部会議はそうだと思います。寡頭政治。

読書猿 そうなんですよ。古代の共和制があって、近代の共和制がある。でも近代は元老院とかないですよね。じゃあ、どうしているかというと、仕組みで相互制約をする。三権分立とかもそうじゃないですか。立法、司法、行政。そういう違う原理を入れて相互に牽制をし合うことで、一方に流れないようにしている。そういう意味では、この方法でやれば絶対にうまく行くんだよ、という信用の仕方をしていない。いままでさんざん失敗した苦い経験をどうやって仕組みに活かすかという、「大人の」というか、苦味を知った上で作られた仕組みですよね。

で、これって実はいろんなところにあるんじゃないか。さっきの幹部会議もありましたけど、専門家たちの自治というのは、実は共和主義的な原理になっているんじゃないかと思います。たとえばアカデミア、つまり、学術の世界ではピア・レビューがある。論文を書いたら、誰が書いたか見せないで、匿名の、でも同業で同じ分野の研究者たちが見て、これを出してもいいのかダメなのかというのをチェックして、それで初めて学術雑誌に出る。同じテーマをやっている人たちの間で、お互いに切磋琢磨して。あんまり馬鹿なことをしたらそこでガツンとやられてしまう。そういう仕組みがあるがゆえに、人間が陥りがちなバイアスから一定程度、解放されている。個人個人が持っている知識や能力よりも、そういう相互制約の仕組みを作り上げたことで、学問分野としての質を担保していたり、ひどい間違いが起こらないように、起こったとしても自浄作用が働くような仕組みを作って、生産する知識の質を担保している。アカデミアの中ではそういう制度がある。

弁護士もそうですよね。あんまりひどいことをしたら、外部から罰せられる前に、同業者=弁護士たちによって「あいつはダメだ」と資格を剥奪される。そういう自浄作用を伴う自治ができるがゆえに、それ以外の人たちから尊敬も受けられるし、業務としても「これは弁護士しかやっちゃダメだ」という業務独占ができる。医者も同じですよね。それがあるがゆえに、医者はどこで働いたとしても医者でいられるというか。私立病院だろうが、国立であろうが公立であろうが、医者がやれることとやっていいこと、やるべきことというのはもう決まっている。だからこそ専門的な知識も溜まっているし、仕事も決まっている。医者として勤めたのに「ビラ配りしてね」とかいわれないじゃない。

司書も本当はそういう風になりたかったんですよね。司書しかできない仕事というのがあって、業務が独占できて、司書以外の人たちからもリスペクトを受けられる(もちろん高給を得る)というのを目指したかった。看護師もそうです。看護学というのは、看護師を専門職にしたいがために作った学問なんですよ。とはいえ、すぐ近くに医者がいるんです。世界最古の専門職集団である医者が。その中で、自分たちは下働きで終わるのか、それとも専門職としてリスペクトを受けられる立場になるのかという瀬戸際に立っていた。しかも、ソーシャル・ワーカーとか、いろんなコ・メディカル*13とかも出てくるわけです。その中で看護師は専門職としてどうやって生き残るのかという瀬戸際の中で、努力していった。そのために学問というのが必要なんだ、と。日本ではあんまりそこまで意識されていないですが、アメリカなんかでは、看護学というのは自分たちが生き残るのか、歴史の中で消えてしまうのかの瀬戸際なんだと思っていた。この学問を自立させられなかったら、自分たちは次の世界で生きていられないんだ、という思いで頑張った。何を目指しているかというと、専門職としての自治であり、知識の共和制、技術の共和制といったものです。

政治だけではなくて、いろんなレベルで共和的な原理で立っている集団のあり方というのはきっとあって、それが民主主義の中にも活かされている。アメリカの憲法を書いた人たちも、それを活かそうと思っていた。もともと民主主義的な力が強かったわけですよ。タウンミーティングとかいって、植民地ごとに全員集会で決めたりしていたじゃないですか。そこではみんないっていることがバラバラだった。イギリスと戦争したからまとまったものの、なかったら本当にバラバラになりそうだった。で、バラバラになってもいいんだけど(実はバラバラになりたいとみんな思っていたんだけど)、憲法を書いた人たちは、もう1回イギリスが来た時に勝てないじゃん、と思っていた。13個のバラバラの国を作るんじゃなくて、1つにまとまるにはどうすればいいのかというので、かなり無理やりに作ったんです。

だってヨーロッパの共和制なんて、貴族がいたし、王さまもいた。そういう伝統があったから、民主制も入れて、王政と貴族制を入れたら三権分立ができた。アメリカには王さまも貴族もいないのに、王さまを作ろう、と。それで大統領にした。貴族(的な階層)を作ろうとして、わざわざ上院と下院に分けた。しかも、裁判所の判事なんかは憲法で終身にしたんですよ*14。大統領が指名するから、任命時には大統領の息がかかった人になるんだけど、大統領は任期があって、どんどん変わっていく。でも判事は死んだり自分で辞任しない限り、辞めさせられない。だからずっと残り続けるんですよね。しかも、そういう人たちが「これは憲法から見ておかしいぜ」といえる権利を残した。それは、大統領という王さまを作ったんだけど、王さまが暴走した時に、「それ、おかしいぜ」といえる人を作ったということです。大統領からも議会からも独立した、複数の識者=判事たちの決定が判例として蓄積され、相互に拘束し合いながら、大統領や議会が暴走しておかしな命令や法律を出した場合に、憲法違反だとチェックできる。

そういう風に相互制約し合えるように、混成的な政体として作ったのが近代の共和制。そういう鉄筋が入っているからこそ、本当は脆いセメント的な民主主義も成り立つという。これが現代の民主主義国家といわれているものです。単なる民主主義じゃないんですよ。でも、じゃあ、民衆の声は無視していいのか、というと違う。いわゆる専門家たちや知識がある人たちも、民の声があるから暴走はできないというのもある。鉄筋だけで組んだら弱いじゃないですか。フニャフニャになるんですよね。

Dain コンクリートだけでも脆い。

読書猿 脆い。で、両方の異なる素材を合わせることで、強靭な政治体制、社会の仕組みができるというのが、近代的な共和制の原理なのかな、と。そういう意味では、民衆から見たら専門家は嫌なことをいうんですよ。上から目線だし、僕たちでは分からないような理屈でものをいうし、僕たちの感情や生活実感からずれたことをいっぱいいう。じゃあ、そんな人たちを退けて、民衆の声だけでやったらいいのか。いいや、ちがう。ポピュリズムがなぜダメかというと、やっぱり鉄筋を抜いたコンクリートになってしまうから。専門家が民衆に迎合せず、独自の道を行き、苦言を呈すれば、それに対する反発、専門家批判みたいなものは絶対に起こってくるんだけど、やっぱり専門家はいなきゃいけない。まあ、僕は専門家じゃないんですが(笑)、共和制の原理から考えると専門家はすごく大事。民衆に忖度せずに相互制約に基づく自治を行い、自分たちの論理で動いて異なる判断をしてくれる人たちっていうのは絶対に必要です。違うからこそ、コンクリートに対する鉄筋になれる。

『アイデア大全』(読書猿、フォレスト出版、2017)の序文で、人文学の任務をこんな風に定義したんです。「人が忘れたものや忘れたいものを、覚えておき/思い出し、必要なら掘り起こして、今あるものとは別の可能性を示すこと」って。

僕も含めてですけど、民衆は忘れるんですよ、どんどん。いちいち立ち止まっていたら、日常生活が回っていかないから。でも、だからこそ専門家にはそれぞれの領域で、僕らが忘れていくことを覚えておいてほしい。それはいつか、たとえば、僕らが危機に陥った時に役に立つかもしれない。で、きっと図書館や公文書館の役目の1つもそれなんです。僕らが忘れていってしまうことを、何らかの形で覚えていてくれるからこそ、この映画に出てきた女性みたいに自分のルーツを探したり、あるいはNYPLで文献をあさって、コピー機を発明したチェスター・カールソンみたいに*15今までにないアイデアを生み出したりできる。

谷古宇 ニューヨーク公共図書館には本館のほかに、さまざまな地域に存在する分館があります。その分館の集合が、ニューヨーク公共図書館のユニークな特徴を形作っているといっても過言ではありません。分館の存在が地域の文化を育み、同時に街の人々が分館独自の“色”を描き出すのです。

Dain まさにその人たち(専門家たち)がニューヨーク公共図書館の幹部だったわけですね。

読書猿 ええ。だからこそ彼らは図書館のプロフェッショナルとして、自分たちの自治を行っている。ただ、一方では外の世界に接しているので、いろんなことをいわれますよね。いわれなかったら、きっと彼らは専門家として暴走してしまうだろう。民主主義の中で専門家として生きるがゆえに、説明責任がある。あるいは自分たちを律しながら、お互いにバランスよく回っていく。きっと民主主義の中での図書館の役割はそうで、民主主義化した図書館はダメになるんですよ。

Dain うん、ダメになると思う。

読書猿 図書館としては民衆に逆らってでも図書館であり続けることが、最終的には民主主義の社会をより強靭にして、危機から救うような形になるのかな、と。たとえば、マッカーシズムの時ですよ。当時、彼は大人気でね。そういう声を受けて、単なる一上院議員がですよ、いろんな人たちを“狩っていく”。やられた人たちの多くはセレブです。各界の著名人ばかり。それが、そのことが、民衆から拍手喝采を受けていた理由の1つでもあったと思う。それが民主主義の暴走です。反知性主義*16の流れですね。マッカーシーも反知性主義の、リバイバリズム*17のレトリックを全部受け継いでいるんです。

Dain 反知性主義とリバイバリズムの流れ。

読書猿 そうです。「神」とか「福音」を反共(産)に変えたら、いっていることは全く一緒。

Dain キーワードを入れ替えるだけ。

読書猿 あとレトリックとか。人の動員の仕方もそうだし。

Dain 演出も、か。そのまま引き継がれているんだ。

読書猿 そう。で、いろんな著名人、映画監督がやられましたよ。業界のトップたちを対象にしているから、最初はみんな喝采するんですよね。でも、「おかしい」と思いはじめた時点でもう遅い。止められなくなっている。図書館もやられるんですね。図書館員がやられる。あいつは共産主義的だとかいわれて。もう1つは本ですね。本自身。マルクスの本があるじゃないかとかいって。そりゃあるよ、図書館なんだから。レーニンの本がある、とかね。それをどうやって守ったかというと、図書館はそういうところなんだ、と。「We must have everything」*18、我々は全部を持つ必要がある、それがおれたちの専門性なんだということで対抗したわけです。これは確か、議会図書館の副館長っぽい人*19がいったはずです。

そういう意味では、多くの図書館と同様にニューヨーク公共図書館も狙われていました。でもそれに対抗した。

Dain やっていることは民主主義とは違う。

読書猿 違う。違うがゆえに、民主主義を守れるんだよね。民主主義的じゃない組織だからこそ守れるというのはある。ただ本当をいうと、僕らはその辺りのことが、よく分かってないのかもしれない。日本は出来合いのお惣菜みたいなものとして、アメリカから民主主義をもらって来てて、行き過ぎの失敗や対策のための試行錯誤を重ねた末に作り上げてきたわけではないので。図書館のシステムもそう。図書館を作って、どうやって使っていくんだという試行錯誤をやっていった中でできた仕組みの、その上澄みといったら悪いですが、完成品をもらってきている。

Dain 仕掛けそのものしかもらっていない。重要なのは「過程」なのに。

読書猿 そう。過程は移せないから、しょうがないっちゃしょうがないんですけど、でも、なんでこんなもんがあるの、というのが分かりにくかっただろうと思います。図書館がなぜ必要なのかというのもよく分からなかっただろうし。

ただ、NYPLも、いまはあんなかっこいいことをいっていますけど、かつては分館とか、本当はあんまり作りたくなかったんですよ(笑)。本のタイトルのように、「すべての人に無料の図書館を」なので、分館をたくさん作りなさいとカーネギー財団はそこにお金を出した。あの時代は確かに、ボストンにせよ、どこにせよ、大図書館にいっぱい分館ができるんですけど、本館は知的エリートの城なので、労働者が来るような分館なんて本当はやりたくなかった。でも予算がついてしまったもんだから、誰にやらせよう、誰に押し付けたらいい、みたいなことがあった。

でも、いまは本当に、分館あっての図書館ですよね。分館あってのニューヨーク・パブリック・ライブラリーでしょ。この映画でもそうですけど、研究図書館の話はあんまり出てこないじゃないですか。むしろ分館でどんなことをやっているか、いろんな人が来て、いろんなことをやっているというシーンが多い。でも当時は本館の研究機能、他にない資料をいっぱい揃えて、知的エリートがいっぱい来て、というのが本来の図書館であり、そういうことをやりたいのだ、と。だから分館なんてのは、どうでもいいやつにやらせておけ、とかね。

Dain ハハハ(笑)

読書猿 でも、だからこそ、分館を起点に、たとえば子供たち向けのサービスが始まったというのがあったんですよ。要するに図書館システムの中で分館は、場末というか(笑)、マージナルな場所だったがゆえに、新しいことをやれるようになって、実績を積んでいったわけです。

Dain 分館の方で、ということですね。

読書猿 ええ。でも、いってしまえば、カーネギーにお金を押し付けられて、分館をやらなきゃいけない、となってやった。誰に丸投げしたらいいのという感じで、そういう話をしているんですよ。だって、ものすごい数を作らなきゃいけないんですよ。大変です。そんなことよりも、本館の方をちゃんとやりたいよ、とかね。でも、紐付きのお金だしね。で、分館を作らなきゃいけないとなって、だから団地みたいにね、おんなじような建物を作ろうとか思ってるんですよ。でも、街が違うじゃないですか。だからおんなじような建物を作ったとしても、どんどん変わっていって、やがて「その街の」分館になっていく。

Dain あ、その街ごとの。

読書猿 やっていることも違うし、蔵書も当然違うし。

Dain 確かに、映画の中では数学の本が多く借りられている図書館も……。

読書猿 そう。あれ、すごいですよ。だって、1番か2番くらいに借りられているのが分数の本? え、どんな図書館だよ、と。映画の中で事業っていっていましたっけ。図書館がやっている事業と蔵書っていうのは両輪なんだ、と。数学教室みたいなことを事業でやりたいんだから、それに合った蔵書も増やしていきたい、と分館に出向いた主任司書の女性がいっていたじゃないですか。蔵書を増やして支援しようぜ、という。で、両輪だからこそ、違う事業をやれば違う蔵書を備えた違う図書館になっていく。

Dain そう。だから背景のところは映画の中では語られていなかったけど、パークチェスター分館は、おそらく数学の教師が集まるような場所になっていたんだと思う。

読書猿 で、ちびっこもそうでしょ。だってみんなが分数の本を借りる図書館ってすごいじゃないですか。あれ、もっとみんな「すごい」っていわないとダメだよ。

Dain 突っ込むところというか、びっくりするところはそこだと思う。

読書猿 だからビジネス支援なんかどうでもよくて(笑)、分数の本が貸し出しトップに来るような図書館って、どんだけ頑張ってたんだ、(数学教室やってる)あの眼鏡のニーチャンは、と。そこに注目すべきなんですよ。

Dain すごい頑張っていたんだと思います。子供に向けて頑張ったんじゃなくて、先生の方に働きかけて、先生に「こういう本を持って話をすると、子供もきっと食いついてくれるよ」というような働きかけをおそらくずっとやり続けていて、その結果のところだけが映画で切り取られて見えていて、ということだと思う。結果には驚くんだけど、過程のところに思いを馳せずに、結果だけを見て「すごい、すごい」ってなっちゃうともったいない気がしています。

読書猿 数学の教え方が変わってしまって、親も自分たちが教わったやり方ではないから困っているというんだよね。困っているのは分かるんだけど、じゃあ、なんで図書館に行くの、と。それは図書館に行くのが習慣だったからだと思います。常々、困ったことがあったら図書館に行ってなんとかしていた。そういうのがずっとあるわけですよね。

Dain あれだ、悩みごとの話だ。

読書猿 ええ。困り事があって図書館に行ったら、「解決策、あるよ」と。この本どう? と。啐啄(そったく)というんでしたっけ、卵の外側と内側から突っつくやつ。図書館の内側からの働きかけと、図書館の外、街の人たちが(図書館に)やって来るのとが噛み合っている。

Dain この前の対談の話(「問題解決の場」としての図書館――スゴ本&読書猿対談 続篇)ですね。悩みごとを質問にすると、本の形で応えてもらえるというやつ。

読書猿 そう。だから、あそこは大注目しなきゃいけないシーンですよね。大人も子供も来る数学教室をやることで、巡り巡って図書館が育っていく。そんな、いろんな取り組みをしている分館が92館*20もあるわけですよね、NYPLには。それはもう、スーパーな図書館ですよ。で、そのスタートを、安い労働力で追いやられていた女性たちが開拓していった、という話は、やっぱり書かなきゃいけないよね。

さっきの内側か外側かの話につなぐと、図書館が頑張ったことによって、いままで図書館を使わなかった人たちが図書館に行くようになった。すると、それに合わせて図書館もまた変わっていきますよね*21。だから、最初は同じ建物を作ったはずなのに、ニューヨークのエリアによって違う図書館になっていく。それはみんなが図書館に来てくれるからなんですよ。

Dain あ〜、あったりまえだけど、利用者がいなければ図書館ではない。

読書猿 単にチャイナタウンに建てたからって、利用者が来なかったら普通の図書館のままなんですよ。でもチャイナタウンの人たちが来るようになったから、ああいう形になっている。

Dain あの、パソコンの使い方を教えてもらっているやつ。

読書猿 あのシーン、みんな本当に英語、下手じゃないですか。見ている僕らがハラハラするくらいに、英語が下手なおじちゃんたちが、『これどう保存したらいいの』『100%まで待てばいいの』みたいなことを尋ねてる。

Dain あれはたぶん、チャイナタウンの近くにある図書館だから、そういう人たちが困っているだろうなと思って、ああいう企画を始めた。

読書猿 たぶん、それ以前からも図書館に来ていたんですよ。

Dain パソコン教室がなくても。

読書猿 中国語の本とか、たくさんあったじゃないですか。かつ、ニューアメリカンというコーナーがあってね。あれって要するに、帰化の書類の書き方の本とかが置いてあるコーナーなんですよ。

Dain そっか、そっか。もう止むに止まれず。悩みっていうか、政府が出せといっていて書き方が分からないから、図書館に来る。

読書猿 ということは、まだ来ているんだよ。あの街には移民たちがひっきりなしに。親戚とかを頼って、アメリカに渡ってきているんですよ。

あのコーナー、あの分館は、ニューカマーを前提にしている。だから、図書館の中を映しているだけなのに、その分館があるのがどんな街か見えるんですよね。逆にいえば、それしか見えない映画かもしれない。図書館を映すことで、ニューヨークがそれぞれどんな街やコミュニティからできているかというのを映す映画なんですよ。

Dain あ、それ太文字にするとこだ。図書館「で」ニューヨークを見るという映画がこれだ、という。

読書猿 シーンのつなぎ目で、図書館を映す時もあれば、街を映す時もあるじゃないですか。つながり、シークエンス。図書館のすぐ隣に、タロットショップがあって、映る。そこの看板に「Psychic Reading」とか書いてあるんですよ(笑)。あれ、笑うところなんですけど。NYPLという知の殿堂、世界でも有名な図書館の隣に「Psychic Reading」なんです。

やっぱり、ニューヨークにある図書館だから、それぞれの図書館に来ている人の顔とか服とか、ほんとにいろいろで、すごく面白い。

Dain ハーレム地区125丁目にあるジョージ・ブルース分館で、自宅にネット環境のない住人たちに対してネット接続用機器が貸し出されるシーンがありました。そこに集まっている人たちを見るとアフリカ系アメリカ人が多いことが分かる。そして、着ている服も、黒もしくはグレーといったモノトーンに近くなっていることに気づく。

読書猿 あの担当者の女性の対応、すごいつっけんどんなんだよね(笑)。アメリカのお役所の人っぽい。説明の仕方とかもね。でも、ああじゃなきゃ回らない感じなんでしょうね。よく聞くと細かいことを丁寧にいってるんだけど、たとえば『9人でネット使ったら、自分の分が減るよ』とかね。当たり前のことだけど、『それは他の人にあなたの使えるギガを与えてることなんだよ』と。あ、そこから説明する、みたいな。

Dain たぶん、それ何回もやってトラブルになったんだろうな。きっと苦情があったんだろう。

読書猿 そういう意味では、さっきの「街が見える」という話で、ニューヨーク公共図書館はこんなサービスをやっているという話ではなくて、『なんでこんなサービスをやっているの』という話が延々出てきている。そして、女性の説明の仕方もそうなんだけど、いままで図書館と利用者の関わりの中で何があったのかが見えるじゃないですか。

Dain 背景というか。

読書猿 どんな街でどんな人たちがどう生きているかが、図書館の人の動き方に反映されている。そこで街が見える。やっぱり図書館の映画ではないね。

Dain ニューヨークの映画なのかもしれない。あ、ちょっと話がズレちゃうかもしれないんだけど、ブックオフに行くとその街の人が何を読んでいるか分かる、というのがあって。最初はそうかなあと思ったんだけど、僕が行っていた大学の近くのブックオフに行くと、学生が大学の教科書を売りに来たりするものだから、それなりにアカデミックな感じがする。で、僕は以前、蒲田に住んでいたんですけど、蒲田のブックオフに行くと、雰囲気が全然違う。まあ、当たり前なんですけど。そこに住んでいる人が読み終わった本を渡すから、品揃えが変わってくるわけでね。これは分館の話にも通じていて、分館ごとの色は住んでいる人たちに関係しているんじゃないかと。

読書猿 あと、図書館でやってる講演会も(映画で)映すんだけど、これもニューヨークのどこかのコミュニティについての話が多い。

冒頭近くにユダヤ人コミュニティとデリ(デリカテッセン)についての講演があったじゃないですか。あれ、めっちゃ面白くてね。デリって、僕、行ったことがないんですけど、へたなレストランより、断然おいしいんだって。値段もリーズナブルで。パストラミ・サンドとか有名ですよね。そのデリをユダヤ人が経営してた。で、ニューヨークでユダヤ人といったら演劇と映画じゃないですか。芝居の上演とか映画の上映をどこでやっていたかといったら、その惣菜売ってるデリでやっていたらしいんです。どういうこと? と思いますよね。デリにユダヤ人が集まって、そこで芝居をやったり、映画を上映したりという。デリは毎日の食を支えるし、人が集まる拠点にもなる。

あの講演の最後では、いま、ユダヤ人はどうしているの、という話があって、昔はユダヤ人はデリの周辺にぎゅっと集まって住んでいたけど、いまはそんな必要がないから、みんな郊外に住んでいる、と。その後、出てくるエスニックの人たちは、今もぎゅっと固まって住んでいて、その中にぼんっと分館があるという仕組みなわけですよね。本当に、分館ごとに全然違う。やって来る人たちの服装も違うし、顔色も違うし、ニューヨークはバラバラだなあと。でも、そこから抜け出したんだとかいってるんだよね。あのユダヤ移民の二世を研究してる彼は。

Dain 確かに。

読書猿 それが冒頭にあって、あとは、けっこう芸術の話が出てきていた。ミュージシャンも出てくるし。ニューヨークにある演劇センターで一緒に、ミッションを融合してこの事業をやってますよ、と強調したりとか。そこもニューヨークですよね。

Dain そっか。ニューヨークは演劇の街でもあるから。

読書猿 ショービジネスの街でもあって、いろんな人がチケット買って、お金払って来るんだよね。それをどういう人たちが支えていたか、という話も含まれていた。ニューヨークの映画という話題でもう1つ足すのであれば、みんな歴史の話ばかりしていたじゃん。

Dain あー、確かに。

谷古宇 映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』に登場する人々は皆、スピーチが上手。会議の発言からしてすでに「演説」になっていたりします。彼らはなぜ、これほどスピーチが上手なのでしょうか。

読書猿 三題噺じゃないですけど、この映画をいくつかのキーワードでまとめるとしたら、「ショービジネス」「芸術」「歴史」、あと「政治」かな。NYPLでのイベントで、聞き手を交えた講演というか、インタビューがいくつか出てきましたよね。ここでインタビュアーがやたら「ポリティカルか」という質問をする。エルヴィス・コステロに「あなたはポリティカルですか」って聞くんだよ。あと詩人のユーセフ・コマンヤーカにも「あなたの書く詩はポリティカルですか」と。みんなに聞いてますよね。対談でゲストを呼ぶと大体ポリティカルな話を聞いていて、かつ幹部会議でも「ポリティカル」が頻発する。ポリティカル・リーダーにどう働きかけるか、とか。それはファンドレイジング、市長や議員に働きかけたりして、市からお金を得なきゃいけないので、政治的な話は当然出てくるんだけど。一方で、政治と歴史を何がつないでいるかというと、パブリック・スピーチなんですよ。みんなやたらと話がうまいんだけど、僕の見る限りあれは議論じゃなくて演説をしているんですよね。いろんな立場の人が。朗読ですら演説っぽい。すごい聞かせるやり方で。

Dain うん、確かに。

読書猿 幹部会議でもある人がすごい演説をする。わーっとしゃべって、「うちの図書館はあんなこともやってきた、こんなこともやって成果をあげた」というのをずらずら並べて、最後に、「(やったのは)みんな、あなたたちです(All, You)」とかね。そこだけすごいスローモーションでいう。きっとパブリック・スピーチの練習を小さい頃からやるんじゃないですか。でも、これが「今、何が問題でおれたちはこれをすべきなんだ」という話と、「おれたちはどこからやってきたのか、今までこういう風にやって来たんだ」というのをつないでる。政治と歴史をつなぐのはパブリック・スピーチなんですよ。

全然違う映画の話をするんですけど、『マーズ・アタック』(1996・米)という、ティム・バートンが監督で、豪華なキャストがたくさん出演した作品がありまして、なんか分からんけど火星人が地球に攻めてきて、豪華キャストを次々に殺していく。最後は冴えない少年(でも、美形。ルーカス・ハース)が火星人を退治する方法を見つけて大団円という。で、これはいったいなんの映画かというと、パブリック・スピーチの映画でして。ゲストには必ず語るシーンがある。演説っぽいことをするシーンがあって、みんなすごくいいことを語り出すんだけど、その素晴らしい演説をが終わる前に火星人に殺されるという、その繰り返し。

マーズ・アタック! [DVD]

Dain (笑)。そういうパターンができあがっているんだ。

読書猿 はい(笑)。で、その火星人を退治する方法を見つけた少年が一番最後に、大統領の娘さんにスピーチしてっていわれてやるんだけど、すごいぐだぐだなの(笑)。でも、最後まで喋り終えるという。彼にはその資格があるということ。そういうスピーチ映画なんですよ。ジャック・ニコルソンが大統領役をやっていて、これがもう涙を流すくらいいいスピーチをするんだけど、火星人には全然通じてなくてバンっと殺される。

Dain 結局、殺されるんだ。

読書猿 長回しでたっぷり聞かせてくれて、でも最後までは喋らせないという。延々そういうことやってる映画なんですけど。じゃあ、スピーチなんて、みんながやれるわけ? と。科学者もスピーチするし、大統領もスピーチするし、いろんな人たちがスピーチするんですよ。それを思い出した。『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』の方は実在の人たちじゃないですか。役を与えられているわけじゃなくて、たとえば、工事を担当してるおっちゃんまでスピーチをしているわけですよね。やっていることは、緊急用の予算を使ってどんな修繕をしたかを報告しますっていう事務的な話なんだけど。でも、弁論術の基本のような、具体的な数字をばんばん入れて、すでに何件やっていて、今も何件着手してるとか、対比も使う。説得力があって実に聞かせる。でも、よく考えたら、単に直している報告をしてるだけだろうと。

Dain でも、聞かせるんだ。

読書猿 そう。聞かせるスピーチができる。『マーズ・アタック』ではみんなやってたけど、アメリカ人ではあれが普通なんだ、と。

また、少し話変わるんですけど『プレイボーイ』という雑誌で、著名人を呼んだインタビュー記事ってすごい有名じゃないですか。今思ったら、あの面白さはパブリック・スピーチ、演説なんですよ。日本のインタビューってぐだぐだでもいいから、その人たちが普段話せないようなプライベートなことをさらけ出したら「いいインタビュー」じゃないですか。じゃなくて、マイク・タイソンですらすごい語りで、感動的なことをいうんですよ。タイソンは、字を読めないどころか数字も分からないんです。だから、自分が一体どれだけファイトマネーをもらっていたも分かってなかった、という話を切々とやりだして。で、彼が捕まるじゃないですか。捕まった時に面会にモハメド・アリがやってきて、コーランをくれたと。で、刑務所で文字を勉強する。あ、ブラック・ムスリムだ、マルコムX*22かよ、と。物語になってるんですよね。それでやっとおれは目覚めたという。目覚めたけど、真人間になったかというと分からないですけど(笑)。でもインタビューを見る限り、起承転結がついているし、アリが出てきて盛り上がるじゃないですか。スピーチライターが書いたのかもしれないけど、それは分からないですが、まるでスピーチライターが書いたかのようなインタビューになっている。でも、それはきっと読み手が求めているものでもあるし、誰でも公人として言葉を編成して、練り上げて伝えるというのが当たり前なんだな、と。で、NYPLの幹部会議もこれ、会議じゃないよね。

Dain 会議じゃないです。

読書猿 館長も、短いながらも演説してるんですよ。それって問題解決になっているの? と考えると、なってない気がする。いいこといっていて感動的なんだけど、問題解決にはなってはいない。たとえば、ホームレスの人たち*23に関する会議(*ホームレスの人々は頻繁に図書館を利用する。それが他の利用者の迷惑になっている場合がある)で館長がいう話って、解決になってないですよね。いいことはいっているけど。彼は「難しい問題だ。わたしは専門家ではないが、市民として感じたことをいうと……」なんてことをいう。えっ、なんでここで市民が出てくるの、お前館長やろ、と。

Dain まあ、それは館長としていっちゃうと、問題があるから、一意見として聞いてくれと。

読書猿 で、「ホームレスを生み出してる、この街の文化が問題なんだ」と。いやいや、お前、館長やろ、と(笑)

Dain 処方箋を示せよ、という。

読書猿 「図書館としてはどうするの?」という会議じゃないの、と。確かにいい話なんだけど、ああいうしか方法がないのかもしれないけど、でもあれで成り立つの? というか。僕ら社会人もやってますから、会議はないことないですけど、僕らがやる会議ってぐだぐだなんですよね。みんな喋り方がなってないし、何いってるかもよく分からないし、感動するシーンなんか一切ないじゃないですか。でも、この人たちの会議って感動するシーンしかないよね。なんでそんないいこといわなきゃいけないのって、逆に思うくらい。

Dain 監督が「感動的なスピーチ」を切り取っているという考え方と、あと、当然、アメリカの人たちはパブリック・スピーチをするという文化に染まっているから、会議の場でも自然と出てくるのではないか、という考え方と2つある。

読書猿 たぶん両方あるんでしょうね。音がね、非常によかったですよね。あれ、監督が録音とかやってるんですよね。会議の時に大きなきれいなお皿があった。なんでお皿があるのかなと思ったら、そこにトランシーバーみたいなのが入ってたじゃないですか。あれはマイクなんですよ。

Dain あ〜、あった、あった!

読書猿 普通にマイクを置けばいいんだけど、ちょっと無粋だから、大きなきれいなお皿に乗っけてね(笑)。この細かい気遣いみたいな(笑)。でも、監督としては、ちゃんと声を取りたいんだよね。いかに言葉を使っているかというのを捕まえなきゃいけないんで、マイクは絶対置かせてくれという話をしていると思うんだけど。だからお皿の上に(笑)。そのおもてなしの心に笑ってしまった。だけど、声をしっかり捕まえて、作品に出したいという思いがある。いろんな人のパブリック・スピーチを重ねて、それで映画が作れるんだ、といいたいんじゃないかな。

谷古宇 移民の国、アメリカ合衆国は国民のルーツが記された文書(公文書、私的文書問わず)を非常に大切にします。それは人間たちの契約によって生まれた比較的新しい国としてのアイデンティティを守ることを意味します。そこで公共図書館が担う役割の重要性は日本人の予想を超えています。

読書猿 普通の映画は『マーズ・アタック』みたいに演説ばっかりしないですよ。普通に泣いているし、プライベートな言葉の方がむしろ多い。人と人がいて、たとえば、片方が「どんだけあなたのことが好きなのか」みたいなプライベートなことを喋る。それをスクリーンのこちら側で覗き見できるから面白い、というのが普通の映画です。だから、『マーズ・アタック』は例外ですが、『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』はドキュメンタリー色が強い映画で、図書館という場所でさまざまな人が紡ぎ出すパブリック・スピーチを捕まえようという監督の意図がある。それが何につながっていくのかといったら、やっぱりアメリカの政治と歴史だと思うんですよね。本当に歴史の話がたくさん出てくる。この映画を見る前にDainさんと「公文書館に行って自分のルーツを探す話」をしたでしょう。まさにその話が映画の最初の方にありましたよね。ある女性が、1810年にアメリカに渡ってきた自分の先祖を探しているという。

Dain あ、ありましたね。

読書猿 いつ来たか、どの船に乗ったか分かれば割り出せるよ、とかいうやり取りがあって。

Dain 何年何月何日まで分かれば、移民証書があるから分かります、とかいう。

読書猿 そう。乗った船が分かったら、という。まさに船で来た人が作った国というのもある。

Dain 図書館なんですね。それが保存されているのが。

読書猿 たぶん写しとか持って来ていると思うんですよね。データ化されている分もちょっとあるよ、とかいっていて。かつ、さっきの話でいうと、図書館に来る人にそういうニーズがある。僕らは図書館に行かないよね、自分のルーツを探すために。

Dain 戸籍だったら市役所に行きますよね。

読書猿 はい。でも、彼らは図書館に行くし、図書館もそれに対応するように用意をしていて、あるいは、写しを公文書館からもらったりする。アメリカって公文書館に普通の人が行くんですよね。家系図を書きたい人とかが。

Dain 自分のルーツを知りたいがために。

読書猿 そうやってルーツを探れるというのは本当にすごいことです。古い時代から公的な記録を残している。第一回の大陸会議、アメリカ建国の当初くらいから、公文書は大事なんだ、という議論をやっている。そして実際、公文書館を早くに作ってる。

国立公文書記録管理局(National Archives and Records Administration|NARA)だけじゃなくて、歴代の大統領ごとに資料館があったり、他にも各都市の文書館や歴史協会、そして、もちろん図書館も地域の歴史資料をコレクションしている。

こういう施設に行けば、誰でも文書を閲覧できる。もちろん無料です。なぜなら、歴史的な資料というのはパブリックなものであるべきだから。そういう理念が市民の意識に通底している。

しかも、それだけじゃなくて、要職についていた人たちが自分の書いたメモとか日記といった私的な文書を公的な利用のためにまるごと寄贈したりする。そういう習慣が国中に広まっている。むしろ、ほとんど義務だと感じているフシがあるくらい。そういう資料が整理されて、保存されているから、ある政策が決まったプロセスとか、公的な資料だけでなく、私的なメモとかまで使って再現できる、分析できる。

日本だと、公文書を使ったルーツ探しって、まあ、難しいよね。戸籍は保存年限が80年くらいだったんです(つい最近まで、日本では除籍簿*24(と改製原戸籍謄本)の保存期間はたったの80年だった)。最近やっと150年に延びた。その前はお寺の過去帳なんですけど、廃仏毀釈があったから、残ってないことも多い。廃仏毀釈には地域差があって。一生懸命やった地域もあればいい加減なところもあって、一生懸命やったところはもう残ってないんですね。旧薩摩藩とかね。お寺がないと、当然、過去帳もない。日本人は自分が日本人であることをそれで疑ったりはしないとは思うけども、もし、アメリカで同じような文書の破壊や廃棄があればね、「おれたちのへその緒を捨てやがって」的な猛烈な反発や怒りが来ると思うんです。ハイネの警句「本を焼く者は、やがて人間を焼くようになる」をもじっていえば、「資料を捨てる社会は、やがて人間を捨てるようになる」。これもう予言でもなんでもないですけど。

ちょっと昔に読んだ小説を思い出しました。カート・ヴォネガットの例によってひどい小説(ほめてます)なんですけど。『スラップスティックーまたは、もう孤独じゃない!』(カート・ヴォネガット、翻訳=朝倉久志、早川書房、1983)。アメリカが滅亡する話です。アメリカ最後の大統領が主人公。翻訳は「記録保管書」になってるんですが、原文はthe National Archives、しかもそこにある「Past is Prologue*25」って銘文が小説の中にも出てきているので、これNARA(国立公文書館)で間違いないです。ネタバレになってもいいですよね。馬鹿な理由のためにアメリカがめちゃくちゃになっていて、国が潰れかけの時に大統領になった主人公の初めての仕事が、公文書館から書類の山を持ってきて、火力発電所で燃やすことだった(笑)

スラップスティック―または、もう孤独じゃない! (ハヤカワ文庫 SF 528)

Dain ハハハ。

読書猿 なんでかというと、公約を守るためなんですね。「アメリカの人々に新しいミドルネームを配る」という公約の実現。そんなくだらない目的のためでもコンピューターを動かさなければいけない。だけど、もう国は壊滅してて電気がない。しょうがないので、公文書館から書類を持ってきて、燃やすという。まさにアメリカの終わりを象徴するようなひどい話です。しかも、燃やすのが、よりによってニクソン時代の文書というのがまたね(笑)。ところで、なんでミドルネームかというと、新しい親戚付き合いをしよう、人工家族を作ろうという変な狙いのため。そうすれば、「アメリカ人の間でまた、お互いに思いやりの心が生まれるんじゃないか」ということを思いついた、と。本当にアメリカ、終わっているという感じですよね(この小説の中ではね)。

アメリカ人にとって、自分および国の根幹に関わるような公文書を燃やすっていうのは、絶対に許されないことなんです。ちょっとでもなくなったらすごいスキャンダルになるんじゃないかっていうくらい、みんなの人生とかルーツにダイレクトにつながっているものなんですよね。

Dain 文書がアイデンティティの証明なんでしょう。お前は何者かと問われ、自分の名を名乗る時にその名前はどこから来たのかという。それは、先祖を辿っていくと、いつアメリカに来たの? という疑問になる。それが分かれば……。

読書猿 それが分かれば、その人が何者かが特定できる。物語なんでしょうけど、でもその物語に代わるようなものは何かといわれた時に、僕ら日本人は弱い。何となく「まあ、日本に生まれたし」とか「日本ってけっこう歴史長いし」とかいうんだけど、書類出せよといわれても出せないよね。

Dain おじいちゃん、おばあちゃんの家系図を見ると、自分とおじいちゃん、おばあちゃん、ひいおじいちゃんくらいまでがあって、その後、長い空白が続いて、古事記の記述に辿り着くみたいな。

読書猿 やっぱりどこかで神話に逃げてしまえるみたいなね。逆にいうと、アメリカには神話がない。僕らはよく悪口で、アメリカは歴史が短いとか、ないとかいうんですけど、そうじゃなくて短いながらも歴史はあるんですよ、神話がないだけでね。たとえば、反知性主義やリバイバリズムといった流れでいったら神さまはいっぱい出てくるんだけど、やっぱりルーツに関しては人間同士の取り決めで始めた国なんです。だからルーツには人間同士の始まりの話しかない。

谷古宇 ヨーロッパから新大陸に上陸したアメリカ人の父祖たちを語るには宗教を避けて通れません。2人の話題はカトリックとプロテスタントの教会、聖書との距離の取り方に及びます。聖書の翻訳が引き起こした人類史上の革命とは。

Dain 契約なんですね。

読書猿 契約ですね。だから、約束を記した文書をなくすってどういうことよ、となる。文書の重要性でいうと、この前、僕もDainさんを見習って、NYPLにメール・レファレンスしたんですよ。フランスの神学者で修道士のマラン・メルセンヌ(Marin Mersenne, 1588〜1648年)の文通に関して質問をした。すぐに返事をくれてびっくりしたんですけど。

マラン・メルセンヌの肖像画、By http://www.york.ac.uk/depts/maths/histstat/people/ Abb.4 from H Loeffel, Blaise Pascal, Basel: Birkhäuser 1987. DSB 9, 316-322., パブリック・ドメイン, Link

Dain 1週間くらいですよね。

読書猿 3日ですよ!

Dain マジか。

読書猿 ヨーロッパの16世紀初めから18世紀までの書簡史料データベース「Early Modern Letters Online*26」とか、そういう手紙のやり取りを図解してくれている「Mapping the Republic of Letters*27」を紹介してくれました。

学術雑誌どころか学会もない時代は、学者同士の文通が学術情報のネットワークを形作っていたんです。この中に「リパブリック・オブ・レターズ」という言葉がある。普通「文芸共同体」とか訳すんですが「man of letters」が学識ある人を指すように、このレターズは学問全般をいってる。さっきの話でいったら「ペンの共和制」というか、活字じゃなくてペンで書いていたものをお互いに意思疎通することで学的共同体ができあがっている。それがフランスの「アカデミー・デ・シアンス(Académie des sciences)」、要するに科学アカデミーにつながったりとか、イギリスでも自分たちでロイヤル・ソサイエティを作らなければならなかったりとか、こういうネットワークが必要だとみんなに知らしめた上でアカデミー=学術共同体ができていくような流れができた。その元はレターの共和国なんですね。

古代の共和制というのは「顔をつき合わせた弁論」によって成り立っているんですけど、ここでは文通という文書のやり取りによって、学問ネットワークがいわば遠隔的な共和制として成立しているんです。そういう意味ではモノとしての文書は極めて大切です。

古代の共和制がなくなって、帝政や王政に変わっていった中で、言葉を扱う技術で生きようとすると、やっぱり文書を扱う技術になる。これが人文学者やヒューマニストの「飯のタネ」になる。さらに進んで、時代を変えるような大きな力になったりもする。自分でラテン語を読めたり、詩が作れたりするんだけど、一方では文献学で文字と文字を突き合わせて、真偽を問う。書き言葉のスキルを積み上げて来た人たちが、いままでぼんやりとしていた文書による根拠を1つずつ潰していく。

ローマ教皇の土地領有権の正当性の根拠とされる《コンスタンティヌスの寄進状》という文書があるんですが、それが後世の偽作だったと文献学的にバラしたロレンツォ・ヴァッラ*28という人がいてですね。文献学的に中世を終わらせてしまったような人文学者です。

ロレンツォ・ヴァッラの肖像画、By http://www.telemachos.hu-berlin.de/bilder/gudeman/gudeman.html, パブリック・ドメイン, Link

キリスト教自体が、聖書という1つの文書の上に成り立っている宗教だから、こういう文献学的な技が時にものすごい力になるんですね。文書というモノが残っていることで、あとで検討されてしまう。聖書学だと高等批評といって、聖書自体をこまかく分析して、どの部分が誰によって、いつ、どこで書かれたを突き止めていく。たとえば「マタイによる福音書」はマタイによって書かれたものじゃないですね、みたいな、いろいろ台無しなことまでいってしまう。

Dain 書いてある言葉だから、ということですね。

読書猿 口頭じゃなくて書き残されているものだから、違う目で見ることができてしまう。だから、「偽作だ」とか「別の人が書いた」とかいうことも突っ込まれてしまう。

Dain まさに証拠ですから。

読書猿 残っているがゆえに、ごまかしようがない。仏教かなんかでいったら、これは怒られますけど、お経自体が「埋蔵経」といってあとから出てくるんですよ。どう考えても後世の人が書いてるんだけど、だから仏陀はあずかり知らないテキストなんだけど、「いや、知られてなかっただけで、本物の仏陀の教えです。あとから発見されたんです」といい張る(笑)。こうやって、あとから聖なるテキストを継ぎ足せるんで、仏典というのは膨大にある。それくらいふわっとしていてもいいんだけど、キリスト教だと、もともと、この聖なる書物の上に成り立っていますといい切っていた宗教だから、あとから足せないし、聖書に辿られると『うん』といわざるを得ない。プロテスタントもそうですよね。教会と聖書、どっちを取るかというと、聖書だ。教会なんて、あとからできたもので、聖書に書いてないじゃないかと。

でも、本当はカトリックはあんまり聖書を使わないんです。ルターが書いてるんですけど、『おれはこの歳になるまで聖書を見たことがない』と*29。おれだけじゃなくて、教会博士とかもみんな見たことがないはず。それくらい聖書はあるところにあるんだけど、みんな読まない。では、(カトリックは)どういう形で動いているか。カトリックでは儀礼を執り行うための言葉を、もともとは聖書から取ってきているんですけど、儀礼のために整理したものを典礼文、あと信者が個人的に食事の前とかにお祈りするための言葉を祈祷文として、定めてる。つまり「こんな時にはこの言葉で祈りなさい」というのを教会が決めているわけです。みんなが参加するミサで使う公的な祈りの言葉はもちろん、私的に祈る言葉も含めて。信者個人はこの祈祷文を集めた祈祷書があれば、宗教生活をやっていける。これに対してプロテスタントはそういうのを含めて教会を否定したんで、自発的な自由祈祷がモットーで、祈りの言葉は自分で毎回考えないといけない。大変ですね。

Dain めっちゃ大変やん……。

読書猿 典礼に使ういくつかのラテン語を覚えたらミサは行えるので、カトリックの聖職者教育機関ができたのは随分あとなんです。14世紀のヨーロッパで黒死病(ペスト)が大流行して、当時の人口の3分の1が死んで、当然、聖職者も足りなくなった時、人文学者を大量にリクルートしてくるんです*30。祈祷書を中心にして儀式が回っていくので、神父さんはあんまり専門的なトレーニングがいらなかった。いらんこと、ガンガンいってしまうな(笑)

Dain いや、でも、本当だと思う。

読書猿 カトリックはそもそも聖書を読ませないんですよ。読ませちゃうと異端がすぐに生まれてしまうから。テキストは同じでも、時代を経て、色んな人が読んでいけば、解釈が違うのがどんどん出てくる。それで異なる解釈をいかに潰すかというので何度も会議をして、正統のオーソドキシーを作っていくわけですね。

Dain 理解させるんじゃなくて、儀礼というかパターンを真似しろ、という。

読書猿 何度も何度も異端が発生しているので、やっぱ、読ませたらダメだろうというのが経験知としてあった。だから、どんどん隠していくようになった。隠していくためには他のテキストで埋めなきゃいけないじゃないですか。だから祈祷書がいっぱいできてくる。

Dain なるほど。ふ〜ん、納得、納得。

読書猿 で、そこまでやったのに、プロテスタントという「聖書に帰るんだ」って人たちが出てきたんですよ。聖書を訳しちゃったり、読めるようにしちゃったり。そもそも、みんな読めるどころか見たこともなかったんです。聖職者ですら見たことがなかったものをね。すごい大開放なわけですよ。

Dain なるほど、ラテン語で隠されていて、一部の人しか読めなかったものを訳して、みんなが読めるように。

読書猿 読む必要もないように教会は作っていったんですね。そういうキリスト教のシステムを作ったんです。周りをいろんな文書で埋めて。やっとそこまで作ったのに……。

Dain ちょうど印刷もできるから安くばらまけるぜ、と。

読書猿 そう。やっぱり読みたいじゃん。え、読めるの? と。だから、すごい商品になった。世界一のベストセラー。

Dain 商品、そっか。

読書猿 うん、だってあれだけたくさん出たってことは、それだけニーズがあったってことですよね。昔からみんなが聖書を持ってたみたいに思うかもしれないけど、あれは革命なんですよ。ベストセラーにしたんですよね。で、そうなると、どうなったか。教会という組織を作って、聖書の解釈も儀礼に使う言葉も固めて、というのがカトリックだったのに、聖書がみんなに配られてしまったら異端を抑えるための仕組みが効かない。

いまプロテスタントというのは教派がすごくたくさんありますよね。だから、それはしょうがないんです。組織で縛るのも、解釈や祈祷書で縛るのもしないので。でも、まあ、段階があって、アングリカン、つまり、イギリス国教会なんかはプロテスタントの一派なんだけど、やっていることはカトリックにかなり近い。祈祷書もあるしね。解釈の独占の仕組みもそのままに受け継いでいる。そこから教皇を取っただけ。だから、イギリスで「おれらプロテスタントじゃないの、そんなカトリックもどきじゃなくて、もっとちゃんとプロテスタントやろうぜ」ということで、ピューリタンが出てきた。ピューリタンの語源って「ピュア(純粋な)」なんです。

Dain うん、ピューリタン。

読書猿 純粋にちゃんとプロテスタントをやろうぜという話で。で、イギリスで迫害されてアメリカに行く。アメリカはそういう人たちが作った国なので、スタートが異端というか反抗的、アウトサイダー的。

Dain 反骨精神があると。

読書猿 でも、アメリカでは自分たちが主流派になってしまったという。

Dain そうか、そうか。そういう人たちばかりが集まって国ができあがっているから。

読書猿 するとそういうエスタブリッシュになったものに対して、そこでもう1回ピューリタンをやりたい、という人たちがどうしても何かの周期で出てきてしまうんですよね。それが福音運動だったり、リバイバリズムなんですよ。

さっき典礼書があれば神父はできるといったんですけど、じゃあ、聖書に帰ったプロテスタントの牧師さんの方はというと、めちゃくちゃ勉強しないとできないんです。なぜかというと、信仰告白といって、「わたしはキリスト教徒になりました」と教会員はみんないわなきゃいけないという儀式がある。それは、カトリックだったら「この通りに読め」です。でも、それはプロテスタントだとNG。お仕着せじゃなくて、オリジナルでないとダメなんです。たとえば、親が病気になって……という風に自分のエピソードを盛り込んで信仰告白する。もう、ちょっとした文学ですよね。教会員からしてこうだから、牧師さんはそれを上回るオリジナルなお祈りと説教をしなきゃいけない。カトリックだったら、どの場合にどの祈りの言葉を使うかは決まってるのに、プロテスタントでは牧師さんは毎週、自分の言葉で考えなくちゃならない。しかも、長いほど評価される(笑)。これはつらいですよ。だから、いろんな勉強をしなきゃいけない。アメリカだと、植民地時代からピューリタンの牧師さんは、まず大卒なんです。

Dain 大卒でしか務まらない。

読書猿 そうです。決まってはないんだけど、いろんなことを勉強しないと、毎週お祈りと説教を考え出すのは無理。だから、ハーバード大学ってマサチューセッツ州に入植して10年も立たないうちにできてるんですよ。むしろ小学校を先に作れよ、と。順番違うだろと思うんだけど、彼らは牧師がいなくなったらどうしようと思ってたんです。いまから作っておかないと、次の世代になって、みんな年取って亡くなったら、おれらどうしたらいいの、と。牧師は誰でもできることじゃないよ、と思ってた。それでハーバード大学を作った。だから、ハーバード大学はリベラルアーツが中心なんです。神学とかはあんまり教えない。

Dain もともとそのためにアメリカに来たんだから。

読書猿 そう、だから聖書は大事。それが読めるようにヘブライ語やギリシア語はしっかりやる。ただ、内容を理解した上で、人々が耳を傾けるような説教ができるようになるには、もっといろんなことを知らなければいけないよね、と。要するに、作家を作らなければいけないみたいな。幾何学とか天文学もやるし、修辞学(レトリック)もやる。ほんとに自由七科、リベラル・アーツです。そうすると、どんどん宗教から離れていきますよ。すると、もう、ハーバードは世俗に染まりすぎたよね、といわれ出す。だからイェール大学を作ろうぜ、と。もう1回ちゃんと真面目な大学を(笑)。そして、しばらくして、イェールもダメに、つまりリベラルに(笑)なったといって、次に作ったのがプリンストン大学、というまことしやかな話というか、フォークロアがあるんです。

Dain あれだ、働きアリの話だ。働きアリの集団の中では絶対に怠けるやつが出てくる。働いているアリばかり選べば、全員ちゃんと働くかというと違ってて、その中から一定の怠けるやつが出てくる。どんなに上澄みを作っても、やってることはずっと変わってないという。

谷古宇 ここでいったん話題が切り替わり、日本の図書館に視点が移る。NYPLは確かに素晴らしい。しかし、それに比べて日本の図書館は……、という論調にDainさんは異議を唱えます。日本の図書館は捨てたものではない。いや、むしろ、かなり“進んでいる”といっていい――。

Dain ところで、この映画を観てから「だから日本の図書館はダメだ」とか「わたしの街にも(NYPLのような)こういう図書館があればいいな」という人は、実はあまり図書館に行っていないか、本を借りる以外のことをしていないのかもしれません。というのも、この間、千代田区立図書館に行ってきたんですね。『おとなもハマる!!こどもの新書』という企画にがあって、ブログの記事もアップしたんですけど。そこですげえ! と思うところがあったんです。

たとえば、ニューヨーク公共図書館は、ハローワークみたいなこともしてる。これは素晴らしい。でもちょっと待って。千代田区の公共図書館でもいろいろやってるよ*31。感動してパンフレットを持ってきたんですけど、たとえばこれ。『がんばるしかない。でも住む家がない!!』というパンフ。要するにいま住んでいるところを追い出されようとしていたり、あるいは収入が減って住めなくなってしまって、家を探したいんだという人のための相談です。生活相談とか、就職相談とか。まさにニューヨーク公共図書館でやっていた、資金の相談や介護の研修と似たようなものを、千代田区立図書館でやっているんですよ。

あとは引きこもり支援もある。引きこもりで困っている人は図書館に来てくださいという。いや、引きこもっている人は図書館にすら来ないと思うけど、でも図書館って意外と引きこもりの人と親和性が高いのかもしれない*32。そういうのがあるのに、「ニューヨーク公共図書館がこんなにも素晴らしいのに、日本の図書館はダメ」という発言に対しては、「いや、ちょっと待ってください」と。こういうことをいうと、「Dainさん、それは千代田区立図書館という資金力がある素晴らしい図書館の話ではないですか」という反論があると思います。確かに他の図書館はそこまでじゃないかもしれません。でも、それはニューヨーク公共図書館も同じで*33、いいところだけを見て絶賛しているところがあるんじゃないでしょうか。ニューヨーク公共図書館の素晴らしいところと、日本の図書館のいいところは、必ずしも排他的じゃないと僕は思います。

映画の中でも出てきていたけど、政治家にウケるのは「週6日開館」という話があったじゃないですか。いま、ニューヨーク公共図書館って週5日開館で、6日目は不定期休館なんですよ。これはWebサイトで調べました。じゃあ、千代田区立図書館はどうかというと、1ヶ月まるまるやっていて、休みは1日か2日だけなんですよ。で、9時から22時までやっている。

ニューヨーク公共図書館はイベントとかは除いて17時には閉まっちゃうんです(NYPLは、基本10時〜17時(分館は場所によって18時))。治安の問題もあるけれど、これだけ見たら、千代田区立図書館の方が便利です。あと、ニューヨーク公共図書館は目の不自由な人向けの設備があって、すごいじゃんと思ったんだけど、千代田区立図書館は、足の不自由な人専用のエレベーターと駐車場もあります。だから、千代田区に住んでいる人で『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を観て素晴らしい思ったら、改めて近所の千代田区立図書館を見直してみてほしい。

また、映画の中で面白いなと思ったのが、『ユニコーンは実在するの?』というレファレンス・サービスの電話のシーンで、僕もやろうかなと思って、でも僕の英語力では伝わらないだろうから、メールのレファレンス・サービスにしました。読書猿さんが「普通そういうのっていいなというけれど、そこまでやる人ってなかなかいないよね」*34といってましたが、ほんとその通り。「いいな」と思っても、ホントにやる人は1割もいないだろうし、続ける人は1%にもならない。おんなじことが図書館にもいえます。

読書猿 ニューヨーク公共図書館は確か、前は配水池*35だったんですかね。ここの配水池は人工でレンガを組んで水を貯めるようにして、そこから水道へ配水されるところだったんです。街なかで土地が高いわけじゃないから、レンガを取り除いてそのまま建てたという。初代館長のジョン・ショウ・ビリングスがやった。ほぼあの『図書館を育てた人々 外国編 I アメリカ編』通りらしいんですよ。その前に作ったのがどこかの医学部の建物とか。病院も建てたらしいです。あの人はアメリカのナイチンゲールみたいな人ですね。元は医者なんですけど、院内感染を防ぐという観点から病院を作った病院建築の第一人者で、次に医学部図書館も作って、さらに図書館でも第一人者になってしまった。

ジョン・ショウ・ビリングス、By uncredited - Library journal, Volume 21 1896 (New York Public Library Archives), Public Domain, Link

Dain はい、はい、はい。

技術と人を軸に、“知りたい”を深掘りするメディア スゴ本と読書猿が映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』を語り尽くす

読書猿 あとは、すごい仕事が好きなんですよ。軍医総監局図書館の目録をほぼ全部1人で作った。他に医学文献を読める人がいなかったんです。自分1人しかいない。資料は全部部下が持ってくるんだけど、それを全部、家でがーっと見て、部下にこれやっとけ、みたいな。昼間は昼間で、普通に仕事をやっていて、その辺でカーネギーと会って意気投合したらしいです。仕事の鬼だから(笑)

Dain カーネギーも仕事好きだから。あー、だからスタッフができて、PubMed*36に繋がっていくんですね。

読書猿 うん、やっと医者の部下が来てくれたんですよね。それで2人でできるようになって、今度は医学雑誌のインデックスを作り出した。これは作り切りじゃなくて、月刊誌なんです。カレントで毎月出す。いろんな医学雑誌で出たやつに全部目を通して編集してるわけです。ただ、ビリングスとその部下が辞めてしまったら、やる人がいなくなってしまった。でも必要だろうとなって、どこかの財団から、カーネギーメロンだったかな、お金が出た。これはもうパブリックでやる仕事でしょう、と。

谷古宇 アメリカの図書館史で女性たちが果たした役割の大きさはいくら強調しても、しすぎることはありません。女性たちのサークル的な図書室が街の公共図書館に発展していく流れを追います。

Dain 以前、お話しした時に、「王さまの図書館」みたいな表現がありましたよね。ヨーロッパでの図書館の起源について、だったでしょうか。

読書猿 ああ、王さまの書斎。

Dain 王さまの書斎というところから始まっていたのがヨーロッパの図書館だったんだけど、アメリカの民主共和制の話の中では地域の利用者の中の図書館だ、という話になるのかな。

読書猿 王さまの書斎との比較という話だと、アメリカの図書館は自発的結社*37から出てきたということがいえると思います。女性が図書館を作った話もまさにそうで、今日持ってこれなかった本があるんですけど、saebou先生の『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち:近世の観劇と読書』(北村紗衣、白水社、2018)。

シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち:近世の観劇と読書

Dain あ〜! あれか。Twitterでいっていた。

読書猿 女性たちがシェイクスピアを聖典に押し上げていったという話。アメリカもそうで、高等教育を受けた裕福な女性たちは文学をやるんですよね。学校でやってた文学談義というか、読んだ本の話をみんなで集まってやりたい*38、結婚してもその続きをやりたい、と。そういう文学クラブなんですよ。きっかけは。

新装版 新訳 アンクル・トムの小屋

Dain あ、本を読むクラブ。

読書猿 今、僕らがやっているような(笑)、集まって本の話をしたいよ、という人の集まりなんです。それが図書館の始まり。で、当然、自分たちの本を置いておきたいよね、ということで本を持ち寄って図書室を作った。この辺り、以前話したフランクリンたちと同じなんですよ。その後、身内だけじゃなくて、他にも広げたいね、となって会員制にして、お金を払った人はメンバーじゃなくても使えるようにしよう、とソーシャル・ライブラリーになった。

Dain で、そこからパブリック・ライブラリーになっていった。あ、そうやって進んでいったんだ。「わたしの本棚」から……。

Dain&読書猿 わたしたちの本棚、みんなの本棚に。

読書猿 そう。で、作ったんだけど、当時、女性たちはお金を稼ぐ手段がなかったんですよね。仕事とかなかなかできない時代で。だから、頼み込んで市役所の部屋を一室借りたりとか、そうしたら、その部屋で他の人が着替えをしたりとかですね。風向き変わったら、「別のことに使いますんで」と追い出されたりとか。で、安住の地を求めて何とかできないか、という時に、図書館を作るならカーネギー財団からお金が出るという話になって。これだ! と。

Dain これが、「女性が図書館を作っていった」という話につながっていく。

読書猿 カーネギーは本当に「セルフヘルプの人」なので、慈善にも効率とか自発性とかを要求するんです。無駄なことはしたくない。だから、死んでから遺産を寄付するみたいなのはダメだ、と。遺贈というのは、つまり、紐がついてない、ということ。おれの目が届かないところで、(おれの金が)何に使われるか分からない、と(笑)。だから、おれの目が黒いうちに金を出して見張る。それが責任のある慈善だ! とかいうんです。ルールも作ったりとかね。図書館の運営方針に関する条件を出して、たとえば、無料でなければいけないとか、街がちゃんと運営費を出すべきだ、とか、最初の建設費の何%を出すべきだ、とか。その上でやりたいところは手を挙げろといった。持続可能な仕組みを考えてもらうことも前提です。そんな面倒くさいことを誰がやるかと思うんですが、実際にはいっぱい手が挙がった。それが女性クラブだった。自分たちの図書室を作っていた女性たちだった。自分たちの図書室をなんとか定着させたい、と彼女たちは考えたんです。

Dain 文学をやり続けたいというのがもともとの動機にあったから。

読書猿 あと図書室をやっているうちに社会との接点ができてくる。役所と付き合うというロビーイング活動もそうですし、バザーをやるとかも。お金がなくて本が買えないから、バザーで本の購入資金を調達しようとするわけですよ。ケーキを作ったりして。で、お金がない人には、お金はいらないから、入場料の代わりにいらない本を持ってきて、と。

Dain なるほど! 頭いい。

読書猿 いいですよね。いまでもやりたいような、素敵な取り組みじゃないですか。でも、まあ、大したものは集まらないですけど。みんな、いらん本ばっかり持ってくるから。だけど、狙いはいいよね。そういうのをやっているうちに、社会との接点がどんどんできてくる。で、お金の大切さも分かるわけです。お金があれば、もっとちゃんとできるのに、と。そして、社会に貢献するということと図書館を運営するということがパラレルになって進んでいく。図書館ができたあとも放っておかないんですよね。目録を作ったりとか。まあ、でも、それをボランティア的にやっちゃったから安い給料で叩かれていくという前の話につながってくるんだけど、でも、そういう人たちがやってくれたからこそ、街々に図書館ができた。カーネギーがお金を配って歩いたから図書館がぽこぽこできたわけじゃないんですよ。彼は手を挙げないとお金を出さなかったんだから。当時、女性クラブの参加者って100万人くらいいたといわれています*39。

Dain 100万人!? すごいなそれ。

読書猿 女性クラブ全体でね。人口3000人くらいの街に12も女性クラブがあったり。それくらい街々にあって、その後の女性解放の歴史の傍流になっている。彼女たちはとても穏健で、当時のジェンダー規範にも従順であり、「女性らしく」活動を行っていた。だから次の世代にいわせると「ぬるい」と。当時、女性に選挙権を、という運動は過激だと思われていた。で、当時は女性たちもあまり乗っからなかった。それで婦人参政権運動自体がどんどん保守化して、現状に妥協していって……。のちに、ようやく成功にこぎつけることになるんですけど……、それまでには長い時間が必要でした。

そういう意味では、参政権運動の方はあまり主流じゃなかったんですよね。当時はむしろ女性クラブなんです。だって、みんなのニーズがあるわけですから。

社会運動には3つの要素が必要だと思うんです。まず、どういう社会にしたいかという「理念」。で、続けるためには、何らかの「物質的なリターン」もいる。つまり、お金が持続のために必要。最後は、社会的なつながり、「人間関係」が活動を通じて得られるという喜び。それがあるから、みんなが参加する。

Dain 仲間か。

読書猿 そう。理念的誘引、物質的誘引、関係的誘引の3つのインセンティブがないと社会的な運動は持続しないと僕は思っています。そういう意味では、女性クラブには、関係的誘引はめちゃくちゃありますよね。みんなで文学の話をしたいという。そこから女性たちは社会に関わるようになっていった。当時は禁酒運動とか、労働者の奥さんとかはお金がないので街に立っていたりしていて「そういうのをなんとかしないと」という運動であるとか。必ずしも慈善運動がプラスに働いたものばかりではなかったんですけど、キリスト教的な倫理感に立って、社会をなんとかしないといけない、それをやれるのはむしろ女性らしさを活かすことなんだ、という流れがあった。

社会に関わろうとした中の1つで図書館はやっぱり、やりやすかった。まず、本を読むことはいいことですしね。参加者には主婦が多かったんですが、旦那さんも「まあ、それはいいんじゃないの」といってくれるような、社会的にも顔向けできる運動だった。だから、理念的にも社会のためになるいいことをやっている。で、友達とも付き合える。家に閉じこもっていて、横のつながりができないところに、そこに行けば同じような立場の人と会えるという誘引もあった。だから、そういう意味では、とてもうまく回った社会運動なんですよね。これだけの人数が参加したということは、当時の参加者のニーズをガチッと捕まえていた、ということでもあります。かつ、物質的な誘引についても、カーネギー財団が図書館設立のためにお金をくれたわけですよ。

Dain お金も大事だったという。

読書猿 全米の女性のクラブを集めて女性連合(the General Federation of Women's Clubs:GFWC)というのが組織されました。ここが、さまざまな社会改良運動とともに図書館設立を目標に掲げたんです。「うちでも図書館やろうぜ」というように、横のつながり的に全国的なネットワークも作ったわけですね。ノウハウとかも分け合ったりしながらどんどん広がっていった。各地の女性クラブは、図書館設立の寄付集めから、自治体への働きかけ、カーネギー財団からの支援獲得のためのロビーイング、さらには、図書館設立後の目録づくりにまで関わっていった。

Dain 教会だけではなく、図書館にも女性は集まった。

読書猿 自分たちで作ったんですよね、その場所を。

Dain 教会は神から与えられたかもしれないけど。

読書猿 教会だと上には牧師、つまり、男性がいるんですよ。だから、そうではない自分たちの場所を作った。いまもよく「居場所」っていいますけど、場所を作る運動として、これほど大規模に全国レベルでわっと広がって成果を出した例は他にないのではないでしょうか。すごいことですよね*40。

Dain 歴史にも残っている。

読書猿 モノが本当に残っていますしね。GFWCとALA(アメリカ図書館協会)*41の調査では、アメリカの公共図書館の75〜80%が当地の女性クラブの運動によって始まったそうです*42。これはとんでもない話でしょ。こんなとてつもない話はみんな知らなきゃダメだよと思って。

Dain アメリカの図書館がなぜ、「公共」図書館なのかがとてもよく分かる話ですね。日本の「公立」図書館との違いも、めっちゃ納得がいく。

読書猿 カーネギーは住民の徒歩圏内に図書館があるようにしたかった。でも、それをやるためには、徒歩圏内で誰かが手を挙げてくれないといけないんですよね。挙げた人たちがその時代にいた。そして、それは女性クラブだった。

Dain なるほど。それって実証研究ができそうな気がする。Googleマップで表示される公共図書館の所在地の状況を、たとえば、ヨーロッパ各国の状況と比較してみる。(人口密度ならぬ)「図書館密度」みたいに、人口100万人あたりの図書館の数みたいなものを、統計的に比べると、アメリカの方が圧倒的に多いような気がする。

読書猿 図書館地理学みたいなね。僕は思うんですけど、図書館学はね、いろんな社会科学の手法をもっと取り入れるべきなんですよ。学術書を含む図書館関係の本って「日本十進分類法(NDC)」*43の中でいうと、020に分類されているんです。全部、そこにあるというか、固まっているんですよ。確かに探しやすいといえば、探しやすい。でも、本当はそれ、よくなくて、僕らの主張というのは、あるテーマの本は、むしろ、すべてのカテゴリーに分散する形で管理されるべきだ、ということでした(参考:「問題解決の場」としての図書館――スゴ本&読書猿対談 続篇)。すると、図書館関係の本は建築の棚にもあれば、地理学の棚にもあるべき、ということになります。歴史の棚にもあるべき。

図書館学はあまりにも「図書館の中」で閉じていて……、最近やっと、歴史学や社会学の研究手法を取り入れ始めましたが。そういう新しい図書館史の萌芽を紹介したのが先程お見せした『アメリカ図書館史に女性を書きこむ』です。そういう意味では、図書館学はまだまだ発展の余地がたくさんあると思います。図書館地理学、図書館社会学、図書館経済学という風に。すると、図書館は貸し出しカウンターの中だけじゃなくて、もっと外に……。

Dain 貸し出しカウンターの外に広がっていく。

読書猿 広がっていくはずです。なぜ、図書館に貸し出しカウンターができたかというと、ある時から本の貸し出しを始めたから。貸し出しサービスを始める前は、貸し出しカウンターなんてなかったんですよ。

Dain そうですね。

読書猿 貸し出しカウンターができる前には出納カウンターがあった。つまり、図書館は完全に閉架だったんです。それが、貸し出しサービスを開始したことで、開架になっていった。さらにサービスの無料化も増えていった。

Dain 誰でも来てください、と。しかも無料で本を借りられます、と。

読書猿 それってそんなに新しいことではなくて、始まってから150年くらいしか経っていない。図書館の長い歴史の中で見るなら、むしろ、新しい試みといっていい。

Dain 『公共図書館の冒険』の中にもありましたね。昔は閉架で、かつ、お金を払ったり、回数券みたいなのを買って、と。

読書猿 極端にいうと、図書館運営サイドと利用者はお互いを“敵”と思ってましたから。刑務所であるじゃないですか、パノプティコン*44っていうんですけど、囚人を見張れるように中央に監視塔を置いて、その他の部屋を放射状に配置するみたいなものが。それが図書館にあるんですよ。

By ジェレミ・ベンサム - The works of Jeremy Bentham vol. IV, 172-3, パブリック・ドメイン, Link

Dain 本を盗まれないように。

読書猿 そう。だから、昔は利用者を信用していなかったというのが、図書館建築に反映されています*45。それに、ちゃんと明り取り窓のようなものが上にあって、こっちからは見えるけど、向こうからは見えないみたいな光の取り具合もまさに刑務所と一緒で、それを図書館が地でやっているという。

Dain は〜、ネタかと思った。

読書猿 実在です。

Dain まあ、本を盗む人はいるかもしれないけど、ほんの一握りだと思うよ。

読書猿 ってなったのは、図書館が利用者を信頼するようになったから。それで利用者が本を盗まなくなっていった。いまのホームレスの問題*46なんかでもね、ニューヨーク公共図書館でジョン・ショウ・ビリングス(NYPLの初代館長)に司書を任されたアーサー・ボストウィック*47という人がいて、まあ、結局ビリングスと仲が悪くなって辞めちゃうんですけど、辞めるまでは増えた分館の管理を一手に任された人なんです。彼は当時、労働者は新聞を読みに来るだけ、あるいは寝に来るだけだから、追い出したらいいとかいっているんですよ。そういう意識だった。

Dain 本を守りたいという発想から来ているんだと思う。

読書猿 彼はその後、ビリングスと喧嘩してNYPLを辞め、セントルイス図書館に行きます。『すべての人に無料の図書館』のp.106にこんな記述があります。

なるほどセントルイスのアーサー・ボストウィックといった男性のように、図書館界の多くの指導者は、新聞室が『浮浪者』――粗野にして汚い人びとで、気休め、休息、おそらくは居眠りのために来館し、決して読書のためではない――」を引きつける傾向があり、そうした傾向に不平をもらし続けていた。

そんなわけでボストウィックは新聞室を作りたくなかった。

Dain いいたいことは分かる。ニューヨーク公共図書館でも議論されていたけど、まだ結論が出ていない。

読書猿 ボストウィックのこういう姿勢は、ニューヨーク公共図書館の分館の経験が元になっているんだと思います。

彼はNYPLの分館全体の責任者だったんでね、ガンガンやっていた人なんだと思う。でも時代の変わり目が来て、閉架から開架になっていくし、労働者の人たちも来てくれるような図書館に変わっていった。分館が周りの人たちを巻き込んで、図書館がどんどん変わっていくような流れになっていったんです。彼は幹部として図書館の〈中心〉にいた。だからかもしれませんが、時代の潮目の“手前”にいるような、つまり、古い方の図書館員だった。分館という〈周辺〉で、しかし、コミュニティに近い〈前線〉に立って新しい図書館のあり方を開拓していた女性たちは、潮目の“向こう側”というか、未来の方にいた。それがまさに『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』という映画で映っていたような分館のあり方につながっていく。図書館が街を変え、街が図書館を育てていくようなね。

Dain なるほど。これから先、また数十年単位で図書館の姿が変わっていくというのは、大いにありえますよね。

読書猿 はい。そういう意味では、僕らが知っている図書館の歴史はまだ浅くて、むしろ、始まったばかりなんだと思います。

谷古宇 ニューヨーク公共図書館が展開する多種多様な事業を日本の公立図書館が単体で担うのは現実的に難しいでしょう。しかし。日本には公民館があります。意外と知られていない公民館成立の歴史を紐解きます。

Dain 少し先走っちゃうかもしれないんですけど、今日持ってきた雑誌『現代思想』の『図書館の未来』特集。これは特集のタイトル通り、“未来の図書館”の話が集められています。僕が将来こうなったらいいな、とぜひ働きかけたいのは、病気になった人が相談できる図書館というもの。いまの図書館のレファレンス・サービスでは、病気とか法律相談はやりませんとバシッと切られています。そういう相談は受け付けません、と。でも、医者がいっていることを自分で確認したいという人が、本屋さんとかインターネットで調べ始めると、場合によっては大変なことになる。

読書猿 うん、うん。

Dain ウソ情報、偽情報に引っ張られちゃう。そういったものに染まる前に、図書館に相談しに来ているのだから、そんな人を門前払いするのはよくないんじゃないかと僕は思っている。

では、どうやって受け入れるかというと、ある程度スクリーニングされた情報が揃えられた図書館が求められているのではないか、と。たとえば、癌になりました、と。大腸癌と診断されました、と。大腸癌になったのは自分が人類初ではなく、なった人が書いた本はたくさんあります。治療法が書かれた文献や研究書だけでなく、闘病記もあれば、亡くなられた方の手記もある……。大腸癌の診断を受けた人は、そういう本を読みたいという気持ちがあるはず。そんな人のための本棚です、僕が欲しいのは。ニセ医学で金稼ぎする人が宣伝のために書いた本ではなく、専門知識のある人がきちんと選別した本が並んでいる本棚。そんな本棚があるのが、未来の図書館の1つの形かな、と。現時点でニューヨーク公共図書館にあるのか分かりませんが*48。

読書猿 闘病記は日本に多い*49という話を聞いたことがあります。

Dain あ、そもそもの話。そうかもしれない。

読書猿 英語の学習体験を書いた本って日本にはやたらいっぱいあるが、諸外国にはあんまりないらしいんですね。学習体験を学習者自身が書くみたいな。多いでしょう、日本って。

Dain 多い。それだけで1個の棚ができるくらい。ひょっとすると日本独特なのか。

読書猿 (お医者さんのような)専門家が書いた「噛み砕いた説明の信頼性の高い情報」があるのに、素人が書いた体験記のようなものをなんで読むの? という疑問があるのも理解できる。でも、読みたいっていう人がいるわけでね。書く人がいるってことは、読む人がいるからなので。マーケットで成立するくらいにニーズがあるのは興味深いです。英語でも同じようなニーズがある、病気の本とおんなじように。英語教育者が書いた“ちゃんとした本”を読んだ方がいいじゃんという話なんですが、英語勉強体験記のマーケットもしっかりあります。

さっきの反知性主義ではないですけど、日本では素人による素人のための、みたいなものが一定程度、認められているんですね。専門家が出す情報というのは、提供者側が思うほど、そこまで厳密に顧みられていないというか。あるいは、お医者さんが出す情報は消費者のニーズを捕まえきれていないのかもしれない。それはお医者さんが書く一般向けの情報をもうちょっとなんとかせい、という話なのかもしれないですけど。

Dain 僕の勝手な想像ですけど、病気で不安になっている人は、自分だけではないと思いたいのではないかなと思います。そういう時、体験記や手記みたいなものを探そうとする。それは日本でいうと、私小説の流れ。告白して、それを見て、「こんな悩みはおれだけじゃないんだ」と。いまパッと思い浮かんだのは、『ファイト・クラブ』(監督:デヴィッド・フィンチャー)です。主人公が難病の「患者の会」に患者を装って忍び込むんですが、そこで患者さんたちは自分の苦しみを告白しあっている。アメリカでは自分の悩みをみんなの前で話して、みんなからの承認を得る。日本では誰かの手記を読んで、「おれ1人じゃない、わたし1人じゃないんだ」と思い、安心をする。

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読書猿 それこそ「ニーバーの祈り」*50ってそうじゃないですか。アルコホーリクス・アノニマス*51って、アルコール依存症の人たちが告白しあう集団の中で取り上げられて広がった。自助グループみたいなところがそれこそ薬物依存(ナルコティクス・アノニマス*52)やギャンブル依存(ギャンブラーズ・アノニマス*53)とかにも広がってる。確かにそこで、向こうは告白をしますよね。それを集団化するのは分かりやすい。日本では告白をしない。日記に書く。

Dain その日記が出版されるんですね。闘病記という形で。

図書館の話に戻ると、悩みを解決するためもあるけど、悩みは1人だけのものじゃないんだと納得するために図書館に行くのもありかな、と。教会に告白しに行くように、自分の悩みを納得しに図書館に行くようなもの。あ、で、さっきの病気の話は、未来の図書館ではきっと情報としてはニーズがあるけど、たぶん、いろいろな(規制の)壁がある。それを踏まえた上でさらに勇み足をしちゃうと、たとえば、法律相談って「法テラスみたいなものでお安く受けてますよ」といってますけど、それを弁護士事務所に行くんじゃなくて、図書館でやれないか。あれ、でも、それ、いまでもあるな。図書館がやるんじゃなくて、弁護士が図書館のある場所を借りてやっている。あと、公民館でも。

読書猿 そう。ところで、日本の公民館って、実はものすごい仕組みでね。日本の社会運動がその成立の背景にあってですね。女性運動とかで図書館ができてきたというのがアメリカにあるんですけど、日本の公民館ができた歴史というのもすごいんですよ。なんでまたこんなことを僕がいっているのかって思うんですけど。

Dain うん、必ずしも図書館でやらなくていいのかも。役所でもよくやってますから。僕が毎週通う図書館は、公民館と合体しています。だから、公民館で何やってるかも自然に目に入ります。シニアのためのリハビリダンス教室もあるし、就職相談会や手話トレーニングや演奏会も定期的にやっている。「ニューヨーク公共図書館、すごい」といわれているけれど、規模が違うだけで、日本の公民館でやっているのと一緒じゃない。日本では地方自治体がやっていることを、ニューヨークでは図書館がやっている。じゃあ、ニューヨーク市の方は何やっているのか。もしかしたら、予算だけ渡して図書館にやってもらう、というWin-Winの関係が成り立っているのかもしれない*54。

なんでニューヨーク公共図書館ができているかっていうのは、これまで読書猿さんがお話してきたようにアメリカの図書館の歴史を振り返ることである程度、説明がつくと思います。問題は、日本でやっていくにはどうするかという話かな。

読書猿 図書館でやらなきゃいけないのかという話も一方ではあってね。

Dain それはそう。さっきの「公民館に任せればいいじゃん」という話もあるし。

読書猿 いまは社会主義とか、リベラルな民主勢力がなにかとバカにされてますが、彼らの寄って立つ思想って、日本に公民館がたくさんできた時代に力を持っていたものでもあるんです。市民運動の盛り上がりの中で公民館ができてきたという歴史が日本にあって、だからこそ、こんなにたくさん公民館が全国にある。どこまで活用されているかは別にして、ですけど*55。1960年代から1970年代にかけて公民館が立ち上げられてきた歴史的な背景を、なんでみんなもう忘れてしまっているんだろう、と。そういう意味では日本の社会運動の成果*56はずいぶん忘れられてしまっているなあ、と思います。

Dain 忘れられているというか、教えられてないんじゃないかしら。

読書猿 本当はね、『現代思想』は『公民館の未来』を特集すべきなんですよ。

Dain 僕もそう思う。

読書猿 たぶん売れないだろうけど……。

Dain 売れない。だけど、ニーズとしては高いと思う。何をいっているかというと、介護の世界にもつながると僕は思っているんです。まさにいま、介護教室とかね、僕のよく行っている公民館にはいっぱい出ていますもん。介護にまつわるお金がどうだ、というような内容の。

読書猿 だって、公民館ってこんなことできるんですよ!(Wikipedia『公民館』を見ながら)なんでも来いじゃん。この『公民館の事業』のところを見ると。講座できるでしょ、人を集めて会議や討論会もできて。で、図書室も作れるわけですよ。資料館だって作れる。体育館もできる、各種団体を集めて連絡を取れる。住民の自治組織もできる。

Dain あとね、きっとみなさん何かとんでもないことが起こったら、公民館に行くと思うんです。公民館、体育館、小学校。まあ、ちょっときつい話だけど、大きな地震が来ました、津波が来ましたという時、みんながどこに集まったかという話で。小学校の体育館は避難所として集まる。広いからね。だけど、公民館に行こうとする人もいるはず。なぜかといったら公民館に情報が集まるから。公民館に貼り出されるのは「なんとかちゃんがどこそこの避難所にいます」というメッセージボードだったりする。そういう一次情報が集まるのは公民館だった。僕が見てきたのは。

読書猿 公民館の「公民」とは市民のことです。citoyen。公民館は市民運動の中から出てきた発想だし、その実現化なんですよ。citoyenっていまではもう誰も知らないというか、遠い言葉になってるでしょ。

Dain シトワイヤン? 知らない。

読書猿 フランス語で、「市民」です。いい意味の市民ね。

Dain あ、なるほど。ふ〜ん。

読書猿 こういう議論は岩波の雑誌『世界』とかで。

Dain あ、散々やってるだろうね。それはやるはず。

読書猿 そんなんと連動している話です。岩波新書で新しい本を出すならテーマは図書館ではなく、公民館なんですよ。ニューヨーク公共図書館の向こうを張る取り組みとして。

Dain それね、めっちゃ面白そう。「ニューヨーク公共図書館」というハイブリッドなものに対して、日本でそれにあたるものは何かといえば図書館と公民館だろうと。

読書猿 あと、ビジネス支援ってニューヨーク公共図書館では歴史的には浅い事業なんですよ。だって、日本だったら、それこそ大阪図書館、いまの大阪府立中之島図書館*57ですけど、あれなんか住友家が関わっていて、最初からバリバリのビジネス図書館ですよ。何しろ建館の理念が、中央ホールに掲げられた銅版の「建館寄付記」にあるけど、「知を知り、業を起こす」ですよ。

Dain 働く人のための。

読書猿 図書館の建築、運営に住友家がものすごい力を入れている。まず建築家を選んで一年間留学をさせるんです。「世界中の図書館を見て来い」と。で、世界を見てきた建築家が「いま世界の主流はこれです」「よし、それで行け」と。だから、大阪図書館はニューヨーク公共図書館と一緒のボザール様式*58を採用した。本当に全部見ているんです。この間の対談のタイトルのアイキャッチになっていた、コロンビア大学のロウ記念図書館とか。もう超有名な、現代の神殿のようなね。本当にローマとかギリシャに行って……。

コロンビア大学ロウ記念図書館、CC 表示-継承 3.0, Link

Dain 生で見て。

読書猿 見るだけじゃないですよ、測ってこいと。

Dain 測ってくるの!?

読書猿 そう、実測するんですよ。しかも実測するのは、ギリシャ、ローマの神殿に限るという(笑)。他のその辺の建物でやったらダメだ、みたいな。すごい徹底している。

Dain 本格的だ……。

読書猿 だから、そりゃ作るよ、こんなんを。叩き込まれているから。

Dain はあ〜。

読書猿 同時代のヨーロッパではね、アール・デコとかアール・ヌーヴォーとか、どんどんモダンになっているのに、アメリカではギリシャの神殿なんですよ。おかしいやろ、と思うんだけど。でも、古代ギリシャからの参照はね、モダンな建築様式にもあるわけですよ。そこから持ってきているというのがあるから。でも、当時の日本人はアメリカの図書館建築をすげえ、と思ったんですよね。だから、うちでもやろうとなった。アメリカには王さまがいないから宮殿がないんですよ。図書館が市民の宮殿なんだ、と。

Dain なるほど。あ、図書館は市民の宮殿か。確かにそのとおりだ。うん、そういう風に扱おうとしているから、ボザール様式を採用して。大伽藍じゃないですか、これ。

読書猿 ほんで、天井に絵も描いてね。

Dain これ教会っぽく見えるんだけどな。神さまがいて、天使とか舞わせたら。市民の宮殿なのか。王さまはいない。

読書猿 だから、きみたちがそうなんだと。オーナーは市民だと。

Dain そういう思いが建てた人にはあったんでしょうね。きっと。

谷古宇 アメリカにおける公共図書館の歴史を語るなら、ぜひとも反知性主義に言及しておきたいところ。それはアメリカの政治史、宗教史を貫く大切なコンセプトだから。

読書猿 今日の対談で何回か出てきた反知性主義、リバイバリズムなんですけど。1963年くらいでしたっけ。「反知性主義」というのは、リチャード・ホフスタッターという歴史家が、『アメリカの反知性主義』(田村哲夫訳、みすず書房、2003年)という本で提起した概念です。彼がこの本を書いた動機というか、背景にあるのは先程お話したマッカーシズムなんですよ。アメリカがなんで“こんな風”になってしまったのかを明らかにする試みとして。というので、掘り起こしてみたら、出てくるわ、出てくるわ。そして、リバイバリズムにつながっていく。参考書籍として、森本あんりさんの本(『反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体』(森本あんり、新潮社、2015))はとても読みやすいのでオススメしておきます。今回の対談の裏ネタ本です。Kindleでも買えます。森本さんはアメリカの神学者ジョナサン・エドワーズ*59の専門家です。エドワーズの分厚い研究書を書いている人です。アメリカのキリスト教史なんかも書いていて、もうちょっとたくさん書いてほしいな、というくらいに面白かったですね。

ジョナサン・エドワーズの肖像画、パブリック・ドメイン, Link

アメリカの反知性主義

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

で、反知性主義について、もう少し分かりやすいいい方をするとですね、別に知性に対して反発というか……。

Dain 抗うという意味ではなくて。

読書猿 抗う意味ではなくて、知性が権威に結びつくのを嫌がる。分かりやすくいえば、知に関する反権威主義なんですよ。ハーバード、なんぼのもんじゃい、みたいな。

Dain そっちの方が分かりやすい。

読書猿 その中で、確かにどんどんおかしなの方に行く人たちもいるんですけど、ただ、一方で、知的であろうと思えば、反権威主義にならざるを得ないところがあるじゃないですか。

Dain 既存の知識を疑うところから知は始まっているから。

読書猿 そう。で、その疑いの根っこにあるのが反知性主義だと。もうちょっとベタな話をすると、さっき牧師さんは大変だという話をしていましたね。説教をたくさんしなきゃいけなくて、その説教は長いほどありがたい、という。ときどき他所の教会から呼んだりすると、競い合って長くなるから一日中やっているとか。あなたが3時間だったら、わたしは3時間半やります、とかいう世界になっていて。

Dain 競争になっちゃうんだ。

読書猿 いってしまえば、ピューリタンはすごい知性主義なんですね。知性権威主義というか。知を重要視する、そして権威としてありがたがる流れがあって、そういうのに対して、そこまではもうやってられないよ、という反動として反知性主義が出てくるのは分かる。一方、もう1回しっかりピューリタンをやりたいというリバイバルの流れがあって、牧師さんたちのありがたくも長い説教を通じてじゃなくて、わたし1人で聖書に向かいたいとか、自分の回心*60、神とのつながりの実感からやり直したいという志向というか、そういう話がある。これがいい方に行った話もあって、例えば第2回のリバイバルの時がそうです。奴隷解放運動とか、社会事業に向かうような根っこになるんですよ。まあ、禁酒運動もそうなんですけど。背景にはだんだんとアメリカが農業から工業に移っていったことがあります。昔はお父ちゃんもお母ちゃんも家で仕事をしていたんですけど、男性が出稼ぎも含めて、外へ働きに出るようになると、教会に行く人のうち女性の比率がどんどん高くなる。すると、教会も女性を重視するようになる。

Dain ユーザーですからね。

読書猿 うん。そして女性の方が神聖だというか、より宗教的で道徳的だという説教が増える。実際、宗教的だったでしょうし。教会に来る女性たちの比率はどんどん増えるわけですから。あなたたちこそが正しい信仰を復興する人なんだという風に説教もどんどん変わっていく。その中で、社会をよくするのはわたしたちなんじゃないの、というところから始まったのが、奴隷解放運動や禁酒運動というような、社会をよくするためのさまざまな運動です。わたしたちの社会はより道徳的な方向にあるべきじゃないの、それを実現するのは道徳的なわたしたちじゃないの、という。

反知性主義は反権威主義なので、男性の権威に対抗する論理というか信念を支えもするんです。だって、街に働きに出て、酒飲んで帰ってくる男性たちより、どう考えても、自分たちの方がちゃんと教会に行ってるし、社会の問題を考えているし、いろんな運動をしているじゃないか。自分たちの方が正しいんじゃないか、と。「より道徳的であるべきだ」という考えの方が正しいんじゃないか、と。そこでつかみ取った信念はとても強くて、何に塞がれてもぶち破っていこう、という思いの基盤になりますよね。

Dain うん。

読書猿 そして、運動がどんどん展開していく。社会に対する働きかけの起点となった流れでもあるわけです。でも、だんだん、森本あんりさんの本の書き方なんかもそうなんですけど、世代が経つにつれて……。1回目、2回目くらいまではいいんですよね。リバイバル運動も3回目、4回目くらいになると、どんどんひどくなっていく。知性を蔑むような、単に愚かしい運動になり下がってしまう……。

前にもお話しましたが、「女性が図書館を作った」ことの端緒はここにあります。社会に女性が出てきて、女性こそが社会をよくしなければならないんだ、と。その起点になったのが2回目のリバイバル運動なので、そういう意味ではまさに、「図書館がアメリカを作った」というなら、「反知性主義が図書館を作った」ともいわなくちゃならない。

Dain そして、その図書館がアメリカを作った。

読書猿 だから、やっぱり知的な反権威主義は大事で、アメリカのプラグマティズム*61って分かりやすいじゃないですか。誰々がいっていたから正しいというのではなく、やってみてうまいこといく方が正しい。プラグマティズムは、いまいったそういう流れにおける1つの展開です。

Dain 実証主義そのものだよね。

読書猿 そう。今日は持って来れなかったんですが、アメリカの哲学史家 モートン・ホワイト*62の『アメリカの科学と情念―アメリカ哲学思想史』(モートン・ホワイト、翻訳=村井実、学文社、1982)という、これがまた、なかなか手に入らない本があるんですよ。値段も高くて。

アメリカの科学と情念―アメリカ哲学思想史

アメリカの哲学史とは、科学に対して精神の領域をどのように確保するのかということを考えた歴史でもあります。ジョナサン・エドワーズなんて、アイザック・ニュートンやジョン・ロックとほぼ同時代、まあ「ちょっと遅れ」くらいの人で、ロックを読んでるんですよね。ニュートンはまだ形而上学的なところに依存しているけど、ロックは、形而上学的なことを取り除いてもっと科学的にやらきゃいけないといっている。エドワーズは若い頃からそんなロックが大好きでした。一方で彼はプロテスタントの神父なんです。奇跡を語る。ロック(の脱形而上学)と信仰をどう調停するかという話で、その後のアメリカ哲学の流れが決まった。

その後、ラルフ・ワルド・エマーソン*63は、自然と同一化することが神と一体になることなんだといっている。自然がいいというキリスト教は実はヨーロッパでは薄れてなくなっていて、アメリカっぽい独特の流れになっています。その起点もエドワーズだったりする。エドワーズ自身はそれこそイェール大学を主席で出て、イェール大学で教えていた人でした。すごく厳しい人で、ちゃんと回心しないと教会員として認めないよ、というくらい厳格だった。あまりに厳格すぎて、逆に教会を追い出されちゃうくらいに。

Dain そうなの(笑)

読書猿 本人は別に、いま僕らが知ってるようなテレビ宣教師みたいな派手な演説をしたわけではありません。いつもと同じ演説をしていたんですけど、聴衆の方が変わってきた。それを彼は記述しているんです。他の町で喋った時はみんな静かに聞いていた、と。だけど同じ話をしてもここでは、みんな泣き出すわ、「ああ、神さま……!」と倒れる人は出てくるわ……。いったい、何が起こっているの? と思い始めた。つまり、エドワーズがリバイバルを仕掛けたんじゃないんです。というよりも、リバイバルというよく分からん高まりが人々の間に生まれてくるところに立ち会って記録していた人だった。集まりに出ていた老若男女が、今までの自分の信仰は生ぬるかったと反省する。で、真の信仰に達したいと願う。といってもみんな教会に来てるくらいだから、ちゃんとした信徒さんなんですよ。そういう信徒さんが、いやいや、いままでみたいのじゃなくて、改めてちゃんと信仰したいんだ、と。だから、信仰復興(リバイバル)なんです。

ただ、まあ、エドワーズ自身も、その時代精神の中にいて、もう1回ピューリタンの根本に戻らなきゃいけないんだと思っていて、それが民衆にしっかりと伝わって激しい反応が出たのでしょう。もう1つ、エドワーズはアメリカ人なんですけど、ジョージ・ホイットフィールド*64というイギリスから来た人がいます。実は今回の映画にちょっとだけ出てきます。黒人文化研究図書館の委員会のシーンでアフリカ系アメリカ人で始めて本を出した人(フィリス・ウィートリー*65)の話が出てくるじゃないですか。あの時にホイットフィールドについての詩を彼女が最初に書いたという話が出てくるんです。

Dain あ、そうなんだ……! 確かホールみたいなところでインタビューしていた……。

読書猿 報告みたいなのをしてたよね。そう、フィリス・ウィートリーの話。フィリス・ウィートリーが最初に書いた詩がホイットフィールドについての詩なんですよ。ホイットフィールドはとても説教のうまい人で、アメリカのあちこちで回心が大事なんだいっていたんですけど、彼がアメリカ各地の回心の運動を1つに繋いでしまったんですね。それで第1回リバイバルが成立するようになった。もう1つあって、実は印刷業者としてのベンジャミン・フランクリン*66は、ホイットフィールドの説教はすごいウケるので、印刷したら売れるんじゃないか、と。

Dain ハッハッハッハッ(笑) 目利きやなあ(笑)

読書猿 で、実際、めっちゃ売れるんですよ。さすがフランクリン。ビジネスパーソンなんです。おれは全然信じないけど売れるから、と。そういいながらホイットフィールドの説教をのぞきに行ったら、「これはハマるわ」と自伝に書いてるんですね(笑)。おれは信じないけど、ハマるわと。同時代人だったわけです。で、ホイットフィールドは、もともとはメソジスト運動の指導者になる兄弟(ウェスレー兄弟*67)とイギリスで一緒にやってた人なんです。メソジストなんか僕ら分からないでしょ? ウェスレー兄弟が「規律屋(メソジスト)」ってあだ名だったというんですけど(メソッド(method)からメソジスト(Methodist)って来てる)。あと、バプテストとかもね。

Dain 分からん。

読書猿 バプテストというのは洗礼ですよ。洗礼って大事なんです。これも森本あんりさんの本の受け売りなんですけど、キリスト教徒に「生まれながらのキリスト者」はいない、みんな人生のどこかの時点で信徒になります、と。誓いを立てて、なる。洗礼を受けるってそういうことですよね。だから、洗礼を受けないと信徒になれない。でも、キリスト教の社会だと、子供の頃に幼児洗礼といって、生まれて何日かしたあとに洗礼の儀式をしちゃう。でも、それって自分の意志でやっているわけではない。なので、幼児洗礼をする教派では、成人して自覚的に信仰を持った時、改めて信仰告白式(堅信礼)というのをやって、初めて一人前のキリスト者として認められるんです。で、プロテスタントでも、より純粋志向で急進的な教派は、そもそも幼児洗礼自体を認めていない。その代表がバプテストです。純粋かつ急進的、要は徹底してる。

徹底度の差はあるけど、教義の方向性にはメソジストだろうがバプテストだろうが、長老派だろうがあまり変わっていない。何が違うかというと階層が違う。こういうアメリカのジョークがあります。

『メソジストとは靴を履いたバプテストだ』

『メソジストは文字が読めるバプテストだ』

バプテストは一番素朴で、教会も組織も何もなくてね。本当に僻地まで行っちゃってるのがパブテストなんですよ。だから何も持っていない。メソジストは一定の組織がある。組織をちゃんとして任地の交代ができるようにした。カトリックやアングリカンではもともと人事異動というか、任地交代があるんですね。主教や監督という上級職から、あなたは次はこの教会に行ってください、みたいなことができる。ピューリタンはそういう職位を否定してるんで、牧師さんはその教会の人たち全員の投票で任職されて、生涯その教会に留まるのがほとんど。だけど、メソジストは組織を作り、転勤制度も構築するわけです。そうすると布教が効率的にできるじゃないですか。それで広がった。そして、長老派にもジョークがあって、『長老派は大学に行ったメソジストだ』と(笑)。長老派は少し学があるんですね。いわゆるピューリタンに学歴が高い人が多いというのは、実はその辺が関係している。

アメリカ合衆国建国の前、メソジストやバプテストはすごく迫害されるんですよ。イギリスから追われた同じピューリタンなんだけど、長老派にいわせると、でも、あんなやつらを認めたらイギリスから目をつけられるじゃん? と。自分たちより急進的だし、やばいやつらだから弾圧しよう、となる。で、ひどい目に会う。なんでこういうことになるのかというと、(イギリスの)植民地時代のアメリカは、ヨーロッパみたいに公定教会制だったから。キリスト教にはいろいろな教派がありますが、公定教会制というのは地域ごとに1つの教派を決めるんです。

で、承認なしに別の教会を建てたり、公定の教派の教会とは別に、勝手に集まって別の教派の礼拝をするとアウト、刑事罰になる。でも、バプテストの人が、地域の公定の教会へ行くかというと、行きませんよね、違う教派なんだから。でも、正当な理由なしに教会に行くのをサボるとそれも罰金刑。こんな具合でバプテストなんかは普通に酷い目に遭う。これだとバプテストとかメソジストとか弾圧されちゃうじゃん、こんなんでよいの? となって、合衆国憲法を書くことになるマディソンとかジェファーソンは、公定教会制度をやめようと考え出すんです。信仰する教派によって、普通に刑事罰とか罰金刑を食らうなんておかしいだろ、その原因は公定教会制度だ、と政教分離を目指すことになる。これには、当時の権威主義者、教会で力を持っている人、エスタブリッシュメントなプロテスタントの人たちは大反対するんだけど、一方で、バプテストたちはマディソンとかジェファーソン支持に回る。そりゃそうですよ、公定教会制度が原因で、自分たちが弾圧されていたんだから。

Dain 迫害から逃れるために。

読書猿 マディソンやジェファーソンたちは、自分たちに理があると思った。だって、本当だったら、個人個人、信仰を選べるというのがプロテスタントだったんじゃないか、と。もともとそのために、自由な信仰のために、海を渡って来たのがおれたちの先祖なんじゃないのか、と。公定教会制度なんて、そんなカトリックみたいなことをやってていいの、という理屈が憲法を書いている連中にはあった。そして、バプテストたちには自分たちの組織の利害があった。どうやって生き残ったらいいのかという。で、お互い協力して、実現した。

実は、政教分離が初めて憲法に記述され、実現された国がアメリカなんです。そういう意味では、政教分離とは、単なる政治的な話ではなくて、プロテスタントの神学的な帰結でもあるんです。だけど、これが元で、それ以上のこと、つまり、アメリカという国はいろんな宗教が入っても原理的にはみんな認めるべき、という道が拓けた。僕らが普通思っているような政教分離のところにまで達した。これがこの新しい国の形を将来に渡って決めたわけです。いろんな人が入ってきて、でも弾圧はしない。まあ、実際にはいろいろ弾圧は起こるんだけど、それがあとで批判にさらされるような大きな流れを作りました。でも、きっと、これの元になっているのも、権威をはねのける反知性主義なんですよ。

権威は、牧師の持っている知でもあったわけですよね。その知と権威を切り離すことが大事なんだという反知性主義のプラスの面が出ている。アメリカの憲法を書いた連中が実際そこまで……。

Dain そこまで分かってやっていたかは置いておいて。

読書猿 そう、理神論的なんですよ、マディソンやジェファーソンはね。要するにあまり宗教的ではないので、宗教の勢いを殺したかったという部分があったと思います。でも、その背景には、反知性主義に達するようなバプテストやメソジストがいた。その後、第2回のリバイバル運動を通じて、バプテストやメソジストも、もっと増えていくんですね。だって、教会に居座っている人たちよりもプロテスタントじゃないですか。信仰の歓び(福音)を記した「聖書」だけを唯一の権威とし、教会といった組織とかその中の地位とかは全然見向きもせず、ただ福音を広めるためにどんな僻地へも赴くなんて。だから、リバイバルが来たら、そういう人たちが力を増すし、支持も増えますよね。たとえば、苦労して西部を開拓して来たおれたちのようなところに来てくれるのって、バプテストのやつらだけじゃん、と。そういうのがどんどん増えていく中で、反知性主義が力を持っていく。アメリカの拡大とともに、知性から離れていくところはあるのかもしれないけど、力を持っていくその理由は分かりますよね。エスタブリッシュメントは知もお金も全部持っている人たちで、いろいろ成功もしている。そうではない人たちがどんどん増えていく中で、じゃあ、誰がそれを信仰としてカバーするかといった時にメソジストやバプテストがいた。

ちょっと世の中荒れているよね、といって、信仰に戻らなきゃいけないというリバイバル運動が起こるサイクルがあるんですよね。起こっては消え、起こっては消えという。その度にアメリカの社会が大きく動いて、次の展開につながるような運動が起こったりしている機会ではあった。そういう意味で、反知性主義の流れが分かるとアメリカの歴史が、それも政治から思想、社会運動から文化まで、なんでアメリカはこんな風なのかというのが、一本の筋が通るみたいに理解できるというか。そして、アメリカの歴史を知ることが、図書館、ひいては、ニューヨーク公共図書館のあり方を把握することにもつながるんです。

構成:弥富文次編集:谷古宇浩司 / 株式会社はてなイメージ:Drop of Light、Luciana Nobre Dellza/ Shutterstock.com

*1:キャサリン・ロス他『読書と読者 読書、図書館、コミュニティについての研究成果』(京都大学図書館情報学研究会、2009.12)

*2:図書館と民主主義についての関係について述べた最初の文献は、シドニー・H.ディツィオン『民主主義と図書館』(日本図書館研究会、1994)です。原著は「Arsenals of a Democratic Culture, Chicago: American Library Association」(Ditzion, S. H. 1947)。直訳すると「民主的文化の武器庫」でしょうか。図書館と民主主義の関係についてまとめた最近の文献では「Libraries & democracy: the Cornerstones of liberty. American Library Association」(Kranich, N. C. 2001)があります。

*3:1950年代にアメリカ合衆国で発生した反共産主義に基づく社会運動、政治的運動。Wikipediaより。

*4:歴史修正主義(れきししゅうせいしゅぎ、英: Historical revisionism、独: Geschichtsrevisionismus、仏: Révisionnisme)。単に修正主義ともいうが、ここでは曖昧さ回避のために歴史修正主義とする。Wikipediaより。

*5:アメリカの図書館学者で、図書分類法であるデューイ十進分類法の考案者として知られる。Wikipediaより。

*6:The Machiavellian Moment: Florentine Political Thought and the Atlantic Republican Tradition(Princeton University Press, 1975)

*7:Pocock, J. G. A. (1975). The Machiavellian moment: Florentine political thought and the Atlantic republican tradition. Princeton University Press.

*8:イングランドの古典的共和主義(classical republicanism)思想の政治哲学者。Wikipediaより。

*9:アメリカ合衆国の政治家、政治学者であり、第4代アメリカ合衆国大統領(1809年〜1817年)。ジョン・ジェイおよびアレクサンダー・ハミルトンと共にザ・フェデラリストを共同執筆し「アメリカ合衆国憲法の父」と見なされる。Wikipediaより。

*10:読書猿:歴史学では次の2つが有名です。

・Bailyn, B. (1967). The ideological origins of the American Revolution. Harvard University Press.・Wood, G. S. (1969). The creation of the American republic, 1776-1787. UNC Press Books.

*11:読書猿:たとえば、ジェームズ・スロウィッキー『みんなの意見は案外正しい』(角川文庫、2009)。他にもドナルド・ウィットマン(Wittman, D. A.)が 「The myth of democratic failure: Why political institutions are efficient. University of Chicago press」(1995)で示した「選挙市場」のアイデアがあります。政策についてよく知らない一般市民が間違った投票(本当は自分の利益にならない候補者や政党への投票)を行うとしても、その「間違い」が正規分布の形をとっているならば「間違い」は相互に打ち消しあって、結果として適切な投票結果がもたらされるんじゃないか、と。これを「集計の奇跡」というんですが、ブライアン・カプランは『選挙の経済学:投票者はなぜ愚策を選ぶのか』(日経BP、2009)で、「集計の奇跡」が前提とする「無知な投票者はランダムに振舞う」を崩すところから詳細な反論を加えています。

*12:読書猿:前述のスロウィッキーも「群衆の英知」がうまくいかない条件として、それぞれが個々の考えを持たなくなること(均一化、中央集中、分裂、模倣、集団ヒステリーなど)を挙げている。

*13:医師や歯科医師の指示の下に業務を行う医療従事者を指す。Wikipediaより。

*14:アメリカ合衆国憲法第3条第1節。「合衆国の司法権は、一つの最高裁判所、並びに連邦議会が随時制定、設置する下級裁判所に帰属する。最高裁判所及び下級裁判所の判事は、善行を保持する限り、その職を保ち、またその役務に対し定時に報酬を受ける。その額は在職中減ぜられることはない。」この「善行を保持する限り」は通常「事実上、死亡、引退、あるいは辞任まで」と理解される。

*15:読書猿:他にNYPLで資料をあさっていた発明家にはポラロイド社の創業者エドウィン・ハーバート・ランドがいます。彼は図書館で偏光についての知識を得て、安価に製造できる偏光フィルターを発明、これに「ポラロイド」と名付け、起業の5年後、社名も「ポラロイド」社に変更します。

*16:知的権威やエリート主義に対して懐疑的な立場をとる主義・思想。Wikipediaより。

*17:キリスト教用語としてのリバイバル(英: revival)は、敬虔な信仰者の急速な増加を伴う信仰運動を指す。Wikipediaより。

*18:Communication: Proceedings of the First Conference on Intellectual Freedom, New York City, June 28-29, 1952, ed. William Dix and Paul Bixler, (Chicago: American Library Association, 1954), p.39

*19:この発言はアメリカ議会図書館のthe Chief Assistant LibrarianだったVerner Clappのもの。

*20:About The New York Public Library

*21:読書猿:〈図書館から利用者への働きがけ〉に対して、逆方向の〈利用者から図書館への影響〉は、研究テーマとして取り上げられるのが遅れました。図書館学は、専門職として図書館員のための学問で、図書館の理想と実践(何を実現すべきか、それにはどうすればいいか)をもっぱら取り組んできたこと、図書館史でも図書館側の資料はたくさんあっても利用者側の資料がこれまで開拓されてこなかったことなどが背景にあるのかもしれません。図書館と利用者の相互作用を取り上げた、第4世代の図書館史によるアメリカ図書館の通史にウィーガンド『生活の中の図書館:民衆のアメリカ公立図書館史』( 京都図書館情報学研究会、2017)があります。

*22:アメリカの黒人公民権運動活動家。ネーション・オブ・イスラム (NOI)のスポークスマン、ムスリム・モスク・インク(Muslim Mosque, Inc.)およびアフリカ系アメリカ人統一機構 (Organization of Afro-American Unity)の創立者でもある。出生名はマルコム・リトル (Malcolm Little)。Wikipediaより。

*23:読書猿:アメリカの図書館や公的機関では近年「people experiencing homeless(ホームレスを経験している人々)」が用いられているそうです。というのも、多くの人が、短期間だけホームレス(家のない状態)で生活をし、その後は元の生活に戻るので。

*24:除籍簿(じょせきぼ)とは、戸籍のうち、その戸籍内の全員が死亡や失踪宣告、婚姻、離婚、養子縁組、分籍、転籍などによって除かれたものについて、戸籍簿から除いて別に綴ったものである。Wikipediaより。

*25:読書猿:NARA(の北東角の「未来」の像の台座)にある銘文はほんとは"What is past is prologue"、直訳すると「過去はプロローグである」。元はシェイクスピア『テンペスト』第2幕第1場のアントニオの台詞です。

*26:http://emlo.bodleian.ox.ac.uk

*27:http://republicofletters.stanford.edu

*28:15世紀イタリアの人文主義者である。『コンスタンティヌスの寄進状』を偽書と指摘した。ヴァラとも表記されるが正しいイタリア語はヴァッラ。Wikipediaより。

*29:吉田正彦(2006)「蔵書の玉手箱 聖書を読まなかった修道僧ルター --中世末期および近世初期の宗教書、信心書」(図書の譜(10))、75-93

*30:読書猿:聖職者に人文学者が増えて、これが巡り巡って人文学の素養ある「ルネサンス教皇」まで出るようになって、その贅沢ぶりに怒ったルターたちが宗教改革につながった、といった話もあります。

*31:

読書猿:この対談のあと、Dainさんに千代田区図書館へ連れて行ってもらったんですけど、「ああ、いいなあ」と思ったのが、地元の神田神保町の古書店が順番持ちで企画展を担当するコーナーがあって。ねえ、図書館&古書店ですよ。このネタ、ぜったい『図書館となら、できること』で使おうと思いました。

Dain:これですね。「千代田図書館と神保町古書店の連携展示:VOL.101 皇室を古書で知る」。神田神保町は数多くの古本屋が立ち並んでいますが、図書館もすごいです。新しい本、古い本も含めて、世界一の本の街の地の利を生かして、「図書館の古書展」というシリーズが続いています。もう100回を超えていますので、『図書館となら、できること』のネタとしても充分ですぞ!

*32:

読書猿:ほんとに日本の図書館もいろいろやってるんですよ。たとえば鳥取県立図書館の『図書館を活用した「サポートの必用な家庭」応援』や「図書館=居場所!?」キャンペーン 。あと「医療・健康情報」「法律情報・困りごと支援」「子育て応援」の他に「働く気持ち応援」「いきいきライフ応援」なんてもあります。

他には、

なんかも面白いです。

*33:Dain:NYPLの人が電話で「貸出上限は50冊で~」なんていっていましたが、すげぇ! と思って調べてみたら、日本にもっとすごいのがあります。最高はなんと「無制限」です。全国にありますが、たとえば、東京の図書館だとここにランキング形式であります。「いいところ」だけを切り取ったら、いくらでも出てくる一例として。東京の図書館の貸し出し可能数ランキング

*34:

読書猿:偉そうなことをいってますが、僕もやらない方の人間です。NYPLのメール・レファレンスの存在は知ってましたが、自分ではやったことありませんでした。Dainさんから「やってみたらこんな返事が返ってきましたよ」という話を聞いて、反省して自分もやってみたのが、この対談に出てくるメルセンヌの文通についてのメール・レファレンスです。

Dain:この時、NYPLに聞いたのが「海外に読書猿はいるか?」という問いです。アカデミックの外で学ぶ人、独学者、フィロロギスト、いろんないい方がありますが、そんなブロガーがいるか? という問いに、NYPLのNickさんは「独学者とは “Autodidact” 、つまり ”自分で自分を教育する人” だね」と何人か紹介していただきました。そのブログがまた読み応えがあるのです。そのうち記事にします!

*35:https://en.wikipedia.org/wiki/Croton_Distributing_Reservoir

*36:Pub Med(パブメド)は生命科学や生物医学に関する参考文献や要約を掲載するMEDLINEなどへの無料検索エンジンである。Wikipediaより。

*37:読書猿:自発的結社から始まったアメリカの図書館は、ソーシャル・ライブラリーの時代から、自前の建物を持てたところはほとんど講堂を備えてました。本を読むのがしんどくても講演会とかなら参加できるぜ、って感じで、最初から本を読むだけの場所じゃなかった。エマソンたちも、こういうところで講演して人気を博したし、「問い:何故学ぶのか? → 答え:自由になるため」で紹介したフレデリック・ダグラスも最初に講演したのはソーシャル・ライブラリーの講堂でした。

*38:読書猿:あとから、ここのところ、もう少しちゃんと説明した方がよいかな、と考え直しました。文学、小説を読むことが世界を広げ、社会を変えることにつながるというのが、現代だとむしろ分かりにくいかもしれないんで。小説が社会を変えるって『アンクル・トムの小屋』みたいな今でも知られている小説だけの話じゃないんです。同時代の男性からは「現実逃避」などといわれたんですが、むしろ自分とは違う人生に小説を通じて触れることが、他人が与えた社会的役割を再考することにつながっていくんですよ。読み捨てられ、後世にほとんど残ってないような平凡なフィクションが、当時の社会規範を打ち倒す潜在的な力を持っていたんです。だからこそ、白人男性の指導者や教会は、女性が、それから黒人や下層階級の人たちが小説を読むことを嫌がった、そういう側面がある。19世紀半ばには自由黒人によって50のも文芸協会が設立されています。このあたりの話、同時代の証言では、Barnes, E. (1790). Novels. A History of the Book in America, 2, 442.。最近の研究ではSicherman, B. (2010). Well-read lives: How books inspired a generation of American women. Univ of North Carolina Press.

*39:

■ The Woman's Club of Maplewood --- A Century of Service

In 1890, clubwomen from across the country established the General Federation of Women's Clubs (GFWC), bringing together 200 clubs representing 20,000 members. By 1910, the membership roster had soared to nearly 1 million women.■ Wood, Mary I.; Pennybacker, Percy V. (November 1914). "Civic Activities of Women's Clubs". The Annals of the American Academy of Political and Social Science. 56: 78~87.p.79~80:In the meantime, while individuals and individual clubs were learning their duty to their community life, the General Federation of Women’s Clubs was growing to great dimensions until, today, a rough although not exaggerated estimate of the membership, direct, indirect and allied, places the number of women in that organization well beyond a million and a half.

*40:読書猿:ちなみに「場としての図書館」(library as place)研究は、1990年代以降アメリカを中心に始まりました。これには情報技術の進歩が図書館を無用にする(デジタル・ライブラリーに取って代わられる)という立論への抵抗という背景があります。もちろん〈場所〉についての思索は古く、1970年代のカナダの地理学者エドワード・レルフや、フランスの哲学者アンリ・ルフェーブル、ミシェル・フーコーらが先鞭をつけています。中でもフーコーは、図書館が「エテロトピ(混在郷)」であるとし、また「単一の現実の場所にいくつかの空間ーそれら自体においては相容れないいくつかの場ーを並列させることができる」特別な場所であるとも指摘しています(ミシェル・フーコー「他者の場所 - 混在郷について」工藤晋訳『ミシェル・フーコー思考集成X:1984-88倫理/道徳/啓蒙』筑摩書房、2002)

*41:アメリカ図書館協会 (en:American Library Association, ALA)はアメリカ合衆国に本拠をおき、図書館と図書館教育を国際的に振興する団体である。構成員は64,600名を数え、世界最古にして最大の図書館協会である。Wikipediaより。

*42:Teva Scheer, "The 'Praxis' Side of the Equation: Club Women and American Public Administration," Administrative Theory & Praxis, vol. 24, no 3 (2002), pg. 525.

*43:日本十進分類法(にほんじっしんぶんるいほう、Nippon Decimal Classification:NDC)は、日本の図書館で広く使われている図書分類法である。Wikipediaより。

*44:パノプティコン、もしくはパンオプティコン(Panopticon)は邦訳すれば全展望監視システムのこと。Wikipediaより。

*45:読書猿:『すべての人に無料の図書館』p.105 図版3.47に、その例としてブルックリン・パブリック・ライブラリーのパシフィック分館の平面図があります。

*46:

読書猿:現代のアメリカの図書館がホームレスの問題にどう取り組んでいるかについては、IFLA(国際図書館連盟)2015年次大会でのナンシー・ボルトの次の報告を。It takes a village–How public libraries collaborate with community agencies to serve people who are homeless in the United States. (Bolt, N. 2015)

これには日本語訳もあります。「地域での取り組み―アメリカの公共図書館はどのように地域の団体と協力してホームレスの方々に情報を提供するのか?」

またクライマー事件、消極派と積極派の主張など、図書館とホームレス問題の背景についてはこれをご参照ください。「CA1809 - 動向レビュー:ホームレスを含むすべての人々の社会的包摂と公共図書館 / 松井祐次郎」(カレントアウェアネス)

Dain:図書館とホームレスの問題は、映画になっていますね。2019年に公開されたエミリオ・エステベス監督『The Public』の舞台はシンシナティ図書館で、凍死を避けるために図書館に立てこもるホームレスと、排除しようとする警察、板挟みとなる図書館員の話です。これ観たい!

*47:読書猿:高校の物理教師出身で、晩年は中国へ渡り、図書館の発展に尽力しました。「公開書架と館外貸出は公共図書館のマグナカルタである」との言葉を残しています。米国図書館協会(ALA)会長就任時には、“Librarian as Censor”(図書館員は検閲者であれ)と題する演説を行いました。

*48:

Dain:レファレンス・サービスで知りました。図書館+医療関係者による情報連携は、実際にやっていました。(1)いつでも、どこでも、だれでもが、がんの情報を得られる地域づくりの第一歩

→闘病記というより、もっと実際的な情報連携です。たとえば、医療機関の評判確認のための病院情報や、病気になった時の保険、補助金、公共料金の支払いに関する問い合わせの対応と、図書館+医療機関が連携して行っていきます。具体的には、リーフレットやセミナー、がん情報の調べ方レクチャーなどです。(2)都内公立図書館インターネット等サービス状況

→健康・医療情報サービスを実施している東京都の図書館が20館あります。(3)『公共図書館のための「健康情報の本」選定ノート』

→図書館員と研究者有志が、患者、市民への健康情報提供に取り組む公共図書館、医学図書館、病院図書室、患者図書室の13館の目録情報を基に選んだ健康医療分野の図書のリストです。PDFがリンク切れていましたが、ほぼ同じリストがブクログで参照できます。(4)『やってみよう図書館での医療・健康情報サービス』(日本医学図書館協会、2017)→公共図書館、患者図書室で本を選ぶ人のための種本です。医療、健康情報サービスを学ぶに人に向けた研修書としても利用されています(これ、書店の人が仕入れの種本としたら最強の選書になると思うのですが……)

*49:読書猿:各地の図書館も「闘病記文庫」というコーナーを設けてます。参考書もあります。石井保志『闘病記文庫入門:医療情報資源としての闘病記の提供方法』(日本図書館協会、2011)。

*50:ニーバーの祈り(ニーバーのいのり、英語: Serenity Prayer)は、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバー(1892–1971年)が作者であるとされる。当初は無題だった祈りの言葉の通称のこと。serenityの日本語の訳語から「平静の祈り」「静穏の祈り」とも呼称される。この祈りは、アルコール依存症克服のための組織「アルコホーリクス・アノニマス」や、薬物依存症や神経症の克服を支援する12ステップのプログラムによって採用され、広く知られるようになった。Wikipediaより。

*51:アルコホーリクス・アノニマス(Alcoholics Anonymous)は、1935年にアメリカ合衆国でビル・ウィルソン(ビル・W)とボブ・スミス(ボブ・S、Dr. ボブ)の出会いから始まり、世界に広がった飲酒問題を解決したいと願う相互援助(自助グループ)の集まりで、直訳すると「匿名のアルコール依存症者たち」の意味である。略して AA と呼ばれる。Wikipediaより。

*52:ナルコティックス・アノニマス(Narcotics Anonymous)は薬物によって大さな問題を抱えた仲間同士が薬物問題を解決したいと願う相互援助(自助グループ)の集まりで、直訳すると「匿名の薬物依存症者たち」の意味である。略してNAと呼ばれる。Wikipediaより。

*53:ギャンブラーズ・アノニマス(英語: gamblers anonymous)とは、12ステップのプログラムを用いたギャンブル依存症を抱える人々のためのピアサポートグループ。固有名詞ではない。各地で開催されている各グループは略称を使って GA と名乗る。Wikipediaより。

*54:

読書猿:少し調べたところ、アメリカで多くの図書館がさまざまな社会サービスの窓口になっている背景の1つには、地域、州、連邦政府の支援プログラムが大幅に削減されて、コミュニティに近い地域事務所が閉鎖されたことがあります。この際、地域や州の機関は、プログラムの内容をオンラインで公開し、支援を受けたりオンラインでの給付金申請方法を知るには公共図書館に行くよう広報したようです(無料のネット環境もあるし、いろいろ教えてくれる人もいるし)。(文献)Bertot, J. C., Jaeger, P. T., Langa, L. A., & McClure, C. R. (2006). Drafted: I want you to deliver e-government. Library Journal, 131(13), 34-37.

でもこれ、公共機関が窓口閉鎖した上で代替のアクセスポイントを自前で用意せず図書館に押し付けているともいえます。もう1ついえば、アメリカでは相対的にですが公共図書館は閉鎖にならない(なりにくい)という話でもあります。

*55:

読書猿:僕らが現実の公民館をそんなすごいものと思わない(思えない)一因は圧倒的なマンパワーの不足だと思うんです。古いデータですけど、全国で約1万8000の公民館があって、その数は中学校の数を上回るのに、公民館で働いてる専任職員はそれより少ないんですよ。つまり平均すると、1人未満しか館員がいない。兼任職員と合わせてようやく1人を上回るくらいなんです。専門職員である公民館主事だって資格要件が法で定められていない。「司書」は知ってても、「公民館主事」を知っている人は少ないんじゃないでしょうか。

Dain:公民館主事! まったく知りませんでした。公民館の運営において、実質的に動く役割の人ですね。これ、極めて専門性の高い&めちゃくちゃ大変な仕事だと思いますが、資格職じゃないのか……。二重に驚きです。

*56:読書猿:このあたりで、ぼくが社会運動(公民館運動)とか公民館の理念といってイメージしたのは、いわゆる「三多摩テーゼ」、正式名称、東京都「新しい公民館像をめざして」(1974年)というやつです。これ、図書館運動やその中で生まれた「中小レポート」や「市民の図書館」のインパクトをまともに受けているんですよ。

*57:読書猿:現在の中之島図書館もビジネス支援がんばってます。2004(平成16)年4月に改めて「ビジネス支援室」を設置。これから事業を始めようとする人、営業や企画のためのデータを探している人、キャリアアップしようとする人たち向けに「ビジネス支援サービス」を開始しています。

*58:

読書猿:ボザール様式って何かといったら、パリにあるフランス国立美術学校エコール・デ・ボザールへアメリカから留学した人たちが、帰国してやった建築様式のことなんです。で、エコール・デ・ボザールって学校がもともとローマに芸術家を送って勉強させたり、ギリシャ建築の再評価(グリーク・リバイバル)をおこしたカトルメール・ド・カンシーが終身書記だった美術アカデミーを継承してるようなところなんです。

Dain:前の対談(「問題解決の場」としての図書館)のときの画像ですね! コロンビア大学の図書館、かっこええわ~。

*59:アメリカを代表する会衆派の神学者、牧師、アメリカ先住民(インディアン)への宣教師であった。Wikipediaより。

*60:神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る個人的な信仰体験のことを指す。日本語訳の「回心」は仏教用語の「回心(えしん)」の流用または誤用である。回心(かいしん)は他の宗教での類似の体験について一般的に用いられることもある。Wikipediaより。

*61:プラグマティズム(英: pragmatism)とは、ドイツ語の「pragmatisch」という言葉に由来する、実用主義、道具主義、実際主義とも訳される考え方。Wikipediaより。

*62:アメリカ合衆国の哲学者・思想史家。本名、モートン・ガブリエル・ワイスバーガー (Morton Gabriel Weisberger)。全体論的プラグマティズム(Holistic Pragmatism)という立場を提唱した。Wikipediaより。

*63:アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。無教会主義の先導者。Wikipediaより。

*64:18世紀イギリスと植民地時代アメリカに大きな影響を与えたキリスト教の伝道者、イングランド国教会の牧師、説教者、メソジスト信仰復興の指導者。Wikipediaより。

*65:読書猿:西洋の文学的伝統では、詩は高い尊敬を集めていて、最高の知性の現れと思われていたところに、「黒人には知性なんてない」みたいに思っていた白人エリートたちに彼女の詩は強い衝撃を与えました。その詩を書いたのが本当に彼女なのかボストンの上流社会で大問題になって、州知事や財界、宗教界の有力者たちが直接彼女を面接して、ついに本当だと認めるんですね。それで確かのフィリスが書いたと彼らの証明文書を付けてイギリスで詩集が出版される。この功績で彼女には自由人の資格が与えられたそうです。詩文で自身の自由を勝ち得たわけです。

*66:アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。Wikipediaより。

*67:メソジスト運動の指導者、ジョン・ウェスレー(1703年〜1791年)とチャールズ・ウェスレー(1707年〜1788年)。Wikipediaより。

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